心地好い風が吹く。
開けられた障子から覗く景色は、平和そのものだった。
男からの外出禁止令を喰らってから、早半月。
私の受けた傷はと言うと、もうすっかりと良くなっていた。
元より自己治癒に優れたこの身体。
あの程度の傷、十日あれば十分に癒せた筈であるのに。
それでもこの城から出なかった訳は、偏に男の命があったからである。
主はああ見えて過保護であるのか。
一介の忍びである私にそうまで篤く接する訳は何か。
まるで見当がつかないが、悪い気がする物でもない。
ただ、男に柔らかく触れられる度。
忍びには似つかわしくない日溜りの熱に似た感情と。
その中で一際目立つ、私の胸をチクリと刺す針の先の様な小さい痛み。
それらが心中に沸き起こる意味を、私は理解が出来なかった。
と、その男。
いつもの様に私の様子を見る為、部屋へとズカズカ入り込んで来た男。
私の胸の傷が快方へ向かっているのを確認し、傷が残らぬと良いと満足気に言った後。
何やら優れぬ顔色で、ふぅと疲労した様に重い息を吐いた。
「・・・疲れた」
「?」
普段弱音なぞ1つも零さぬ男の唐突な本音。
何かあったかと眼で問えば、男は疲れた笑みを口元に乗せると、簡潔に答えた。
「単なる小競り合いだ」
「?」
「・・・気にするな。別に戦が起きる訳じゃねぇ」
「・・・?」
些か要領を得ぬが、男はそれ以上の詳細を語る気は無いようである。
だがまぁ、恐らくあの右目と何やら悶着を起こしたのであろう。
そう言えばあの右目も、それはそれは機嫌が悪かった。
先にチラリと厠へ向かう際に目に入った重臣を思い浮かべる。
あの厳つい貌を更に顰め、夜叉か般若かと言った重苦しい気配を背負っていた。
私には気がつかなかったのか、はたまた興味を持たぬのか。
いつも敵意に満ち満ちた視線で射抜いて来る癖して、今日ばかりはコチラを見なかった。
あの様な面でねめつけられたら、それはさぞ恐ろしいであろうに。
そう考えると右目が私に気付かなかったのは幸いであるな。と、男の困憊とした様子を忘れ考え込む。
男はそれが不快であったのか、私をジロリと左目で睨むと、再び重い息を漏らした。
「ったく・・・テメェは相変わらずだな」
「?」
何を以って相も変わらぬと評されたのか解せぬ。
・・・まぁ、あの右目と何が原因で揉めたのかは知らんが。
疲れを労わろうとも、生憎私は声を持たぬ。
男へ掛けるべき言葉すら無となり、それを私は、珍しく歯痒く思った。
「・・・気にすんな。ちぃと疲れただけだ」
「・・・・・・・・・」
男の頬を、言葉の代わりに労わる様に撫ぜる。
すると男は数瞬驚きを見せたものの、すぐに穏やかな笑みを顔に浮かべた。
頬を撫ぜていた私の手を握ると、そのまま己の口元へと寄せ、それを落とす。
口付けされた手の甲が、ジリリと熱かった。
「なぁ、小太郎」
「?」
男の幾分甘えを含んだ声が私を呼ぶ。
何だと眼で聞けば、男は私の膝を指す。
「膝、貸せ」
「?」
「・・・寝る」
「・・・・・・・・・」
何と。
忍びの膝を借りて寝る主が何処にいるか。
目の前にいる男以外、そうそう見つけられた物ではないだろう。
本来影となり主を護る身である忍びが。
その主に動きを封じられるとは、何たる矛盾。
女の膝が借りたいのであれば、どこぞの姫でも嫁に貰うと良い。
忍びである私が貸せるような物ではない。
・・・そう考えるも、何だかふと馬鹿らしくなった。
そうだ。
この男は変わり者である。
私を欲し、私に執着し。
子を孕ます気すら無いのに、私を抱いたりもする。
街へ連れ出したり、何をするでもなく傍に置いたり。
功績をあげた訳でも無いのに物を贈り、怪我をすれば主自らが介抱を施す。
全く以って理解し難い男であるのだ。
今更膝を貸せと言われた所で、何も驚く事柄ではなかった。
そう気付くと急に物事を考えるのが面倒になり、素直に首1つ縦に振る。
瞬間、右目の不機嫌そうな面が過ぎったが、知った事ではない。
寝巻きのまま、一枚衣を羽織ながら、縁側に向けて姿勢を正す。
すると間を置かずに、男が無遠慮に私の膝へ頭を預けて来た。
重みの在る男の頭。
単の着物を一枚隔てた自身の皮膚で、男の髪の感触を知る。
右側を下にして転がっているので、男の閉じられた瞳が、私からは良く見えた。
「悪ィな。・・・一刻程寝る」
「・・・・・・・」
主の言葉に頷き返す。
そのまま眼前の景色を眺めようと思ったのだが、思わずそれも止め、再び主を見てしまった。
「・・・・・・・・・・・・」
聞こえるは、男の穏やかな寝息。
早い。
この男、ものの数秒で眠りに落ちた。
何度も寝床を共にしているが、こんなに早く意識を手離した事があったか。
いいや、コレが始めてである。
余程疲れていたのか、余程心を許しているのか。
・・・心を許す?私に?
もしそうだと言うのなら、この男は相当な阿呆だ。
他軍より奪った私に気を許すか。
忠義の一欠けも抱かぬ私に信頼を寄せるか。
得体の知れぬ女の傍で安堵を得るか。
豪胆であると言えば聞こえが良いのかも知れぬ。
一軍を纏める主たる器なのかも知れぬ。
が、やはり、流石に、無防備過ぎやせぬか。
男の童の如き寝顔を見て、呆れにも似た感情が沸く。
しかしそれは、随分と暖かさを含んだ物であった。
さぁ。と、風が吹く。
薄い雲が、胸がすく程蒼く抜けた空を気儘に流れる。
日差しは何処までも麗らかであり、木々は何処までも青々と輝く。
花の香りが鼻を掠めれば、男の体温が私の膝から全身に伝わる。
私に似つかわしくないこの平穏に、何故か胸が痛んだ。
暫し景色へと向けられていた意識を再び男に戻せば、やはり寝顔は安らかで。
静かな炎を宿す竜の眼も、今は閉じられている。
頬に掛かる硬い髪をそっと避けてやれば、今まで感じた事の無い感情が心の蔵を締め付けた。
もう髪は頬から退いたと言うのに、私の指先はまだ男の髪を、頬を、愛しげに撫ぜる。
何をしているのだ。と自身で疑問に感じるも、男の体温は心地好い。
それと同時に、男に触れた指先が、やたらと熱を持った。
ん。と男の口から、吐息に近い声が漏れた時に、漸く私は指先を離した。
男はまだ眠っている。
目覚めた訳ではなかったのだろう、安心しきった顔で、まだ夢の中にいる。
男の規則正しい、深い呼吸を感じている内。
薄い唇が、何やら寝言にモゴモゴと動いたのを見て。
ふと、自分が、男の名を呼んだ事が無い事を思い出した。
男は意味も無く私の名を、良く通る低い声で呼ぶ。
私は、声を持たぬ私は、男の名を呼んだ事が無い。
呼べぬ。呼ぶ理由も無い。男も別段それを望む訳でもない。
けれど今。
男の体温を感じている今。
何故だか無性に、男の名を呼んでやりたくなった。
その、いまだ胸を締め付ける感情を乗せて、声無き口を開く。
「 」
ま。
さ。
む。
ね。
1つの音を区切って、口でそれを形にする。
けれど、やはり自身の口から漏れたのは、無。
全く、私は、一体何をやっているのか。
自嘲にも似た吐息が声の代わりに漏れた、刹那。
「・・・・呼んだか、小太郎」
眠っていた筈の男が、ハッキリした声で私に問うて来た。
何を。
この男は何を聞いた。
私が、男を呼んだかと。
・・・呼んだ。呼んだ。
声無き声で、お前の名を呼んだ。
けれどお前、何故それが聞こえたのだ。
自身すら、聞く事の叶わない私の声が。
しかし男はそれ以上問わず、黙ったままの私に、続けて言葉を掛ける。
「・・・悪ィ、何でもねぇなら、もう少し膝貸しといてくれ」
「・・・・・・・・・・・」
男はそれきり、また、眠りへと意識を投げてしまった。
・・・・何だ。
何なのか、全くわからぬ。
わからぬが、嫌な気はしない。
男に私の声が聞こえた所で。
名を呼んだ事に気づかれた所で。
何でも無い。気にする事でもない。
ヒュルルル。と、鳶の鳴く声が空に円を描く。
手持ち無沙汰な私は、完全に寝入った男の髪を再び撫ぜた。
飽きる事もなく、指通りの些か悪い髪を、何度も撫ぜた。
ふと。
男が私の声に気付いた時。
それまで胸を締め付けていた痛みが、嘘の様に溶けていたのに気付き。
自身も、この男に負けず劣らず阿呆なのだな。と。
男の事を笑えぬ自分の胸の内を、何となしに、勘付きそうになってしまった。
END.
なんと言うラブラブ・・・これは間違いなくバカップル。
小太郎も激しく初恋中。しかし無自覚。
最後自覚しそうになりましたが、無理矢理気付かずに。
まさか。みたいな、自分は忍びであるのだから。みたいな。
伊達さんは小太郎の声が聞こえたのかと。
惚れた女が自分を呼んでるんですから、聞き逃す訳が無い漢前。
ちなみに小競り合いは、小太郎の予想通り小十郎と。
恐らく小太郎関連で喧嘩してきました。