桜が舞う。
ミセの中から見える桜は、昔見ていた物と変わらぬ美しさで。
一瞬にして美しく咲き誇り、一瞬にして儚く散り行くさだめの下。
月明かりを受けて誇らしげに花弁を震わせるそれは、人の命さながらであった。
桜は好きではないのだと、昔このミセの主として存在した女は言った。
その理由を聞いた事は無い。知りたくとも、聞けなかった。
聞いた所で彼女はきっと答えを寄越さず、優雅に煙管をその紅の唇に咥え、
紫煙をけむらせながら笑うだけだっただろう。
答えが知りたいなら、対価が必要よ?
そう言ったかも知れない。
そうからかい混じりに言われ、その時まだ幼かった自分はきっと拗ねるのだ。
そうして、結局、真実を知らず終い。
もう良いですよと不貞腐れる自分の背を見つめ、彼女が寂しげに微笑んで話は終わる。
きっと、そうなった。
だから彼女が桜を好まない理由は、いまだに知らない。
そして、もう二度と知る事は無いのだろうと予感している。
諦めた訳ではない。彼女の帰りを待つと決めたのは他ならぬ自分。
何年でも、何十年でも、このミセで彼女の帰りを待つと。
けれど、無情にも重なり行く歳月は、自分からその約束を奪い、予感を強めていく。
このミセに囚われてから幾度も見た桜が。異質な自分などとは違い、正しく巡る季節が。
しかし、彼女と同じ立場に立ち、同じ籠に囚われても、やはり桜は美しいのだ。
彼女の口から幾度も聞いた、彼女が想っていた男は、桜が好きであったと言う。
だから嫌いなのかとも思った。彼女は昔の自分に似て、好きな相手に意地を張るから。
想う男が、自分より桜に見惚れた事でもあったのだろうか。
自分ではなく、女の様に美しく儚く咲き綻ぶ花弁に心奪われたからだろうか。
彼女は拗ねたのかも知れない。昔の自分が良くヘソを曲げた様に。
それとも。
正しい季節に命芽吹き、束の間の生を懸命に燃やし、理に従い朽ち果て散る。
そんな桜が、ミセに囚われる内、厭わしく思えたのだろうか。
人としてあるべき姿を、夢の様な美しさで見せつけ、突きつけて来る花を。
決して戻れぬ本来の自分を嘲笑う様に、予定調和に命散る花を。
籠の中から見る桜は、自分を置いて去り行く命に見えたのだろうか。
ああ、考えても、彼女の答えは知る事は無い。
自分もいつしか桜を嫌いになる日が来るのだろうか。
その時、彼女がこの花を嫌う理由がわかるのだろうか。
長い時間、1人、数え切れぬ桜の花を見てきた彼女の心を。
・・・いいや、自分はきっと、わからない。
桜の花弁が1枚、風に流され部屋へ入り込む。
1枚逸れてしまったこの花弁。
それを追う様に、また1枚、ヒラリとこの時間の止まった場所へと舞い落ちる。
そして、2枚の花弁は寄り添うように、畳の上で静かに生を終えた。
・・・10年。
このミセを継いで、10年。
桜を見る度に美しいと思えていた理由。
それはきっと、自分は常に1人ではなかったからだろう。
自分が、例えどんな選択肢を選んでも。
衝動的に自らの人としての運命を捨て、異質となっても。
先の花弁の如く、必ず傍にいてくれる男がいるから。
何処へ行っても必ず追って来てくれる、想い人がいるから。
桜を、美しいなと、共に愛でられる人がいるから。
時間の止まった自分とは対照的に、潔く散る桜を、いまだ美しいと思えるのだろう。
畳の上、重なり合う2枚の花弁を指先で撫ぜる。
きっとこのまま放っておけば、この薄い紅の美しい花弁は、茶色く朽ちるのだろう。
そう、それがあらゆる生のあるべき終末。
いつまでも美しく、不変であると言う事は、正しい生には許されない。
けれど。
例えば、片方の花弁がいつまでも美しく、片方の花弁がみるみる内に朽ちる。
それは、今自分が置かれている状況そのものであった。
自分はいつまで経っても、髪の一筋さえ変化を見せない。
肉体の成長はほとんど見られない。爪や髪でさえ、この10年、切った事がない。
10代から時の止まった身体を、果たしてこの花弁に重ねて良い物か、些か躊躇われるが。
それでも、もしもこの1枚の花弁が不変であるならば、それは自分と同じ。
そして、もう片方の花弁は、ああ、愛しい男。
正しい時間を生きながら、異質の自分の傍にいてくれる人。
それでもホラ、正しい時を刻む花弁は、あっと言う間にくすみ、茶を強くし、枯れ。
そうして、いつしか土に還るのだ。
もう1枚の花弁を置いて、消えるのだ。
同じ時を過ごしながらも、その身を通りゆく時が奪う物は恐ろしい程差があって。
その恐怖を、最近、身をもって理解している。
愛しい人は、いつか、そう遠くない内。
少なくとも自分にとって、そう多くない年月を共に過ごした後、いなくなる。
ああ。何て耐え難い。
自分がこの道を選び、ただでさえこの籠にあの男まで連れ込んで。
彼の運命すら自分を軸にさせてしまったのに、まだ足りないのかと。
きっと正しい誰かが見たら、言うのだろう。
まだあの男の運命を狂わせるのかと、誰かが言うのだろう。
けれど。
ああ、けれど。
自分はあの男にだけは、優しくはなれない。
1枚の花弁がいつまでも鮮やかな色彩を失わず。
1枚の花弁が正しく色褪せ朽ちていくくらいなら。
ガラリ。と、戸を開ける音がした。
誰かなんて、聞くまでも無い。
今日来ると、あの男が言っていたのだ。
廊下を歩く音。
10年以上聞いてきた足音。
無遠慮な癖に静かなのは、この男の育ちか、誠実さ故か。
迎え出る事もせず、ただただ桜を見たまま、あの男を待つ。
幾分も待たぬ間に、背の高い男が、縁側のこの部屋に辿り着いた。
「・・・おう」
「遅かったな。もう日付変わっちまったぞ」
背広を着たこの男。
何度見ても、精悍な顔立ちをしていると思う。
けれど、もうその顔には10代の頃の少年はいない。
今は、30近くの、只管に美しく清浄な魂を持つ、美しい男だ。
月明かりの下、表情の無い貌に青白い光を宿しながら、男は近寄る。
その手には鞄と、手土産代わりか贈品か、1本の酒瓶。
家から持って来たのだろう、それは自分がこのミセに入ってから好んでいる銘柄で。
何となくその意味を悟り、呆れ半分に視線を送れば、男が先に口を開いた。
「祝いだ」
「祝いはいらねぇっつっただろ」
「俺が飲みてぇんだよ」
「ふぅん・・・肴は作らねぇぞ」
男が上着を脱ぎ、ネクタイを緩めながら隣に腰掛ける。
大人の男と言う形容が良く似合う、しっとりとした色香が舞う。
昔、この男を見て騒ぎ立てる少女達が多くいたのを思い出した。
・・・騒がれても仕方ないだけの顔と気配ではあるから、当然だったのだろう。
自分もまた、この男に魅せられ惹かれた内の1人であるのに。
「グラスは」
「持ってきた」
「用意が良いな」
「おう」
自分が今日は腰を上げるつもりが無い事など、既にお見通しの様で。
男は小さなグラスに酒を注ぐと、まずはコチラに渡して来た。
濁った香りの良い酒は、ようやく酒に慣れた自分には丁度良い。
「・・・四月一日」
「何だ」
「・・・おめでとう」
「・・・ああ」
2人、桜を見ながら花見酒と洒落込んでいたら、突然の言葉。
言葉が足りないのは昔からだが、もうそれに対して一々噛み付く様な真似はしない。
昔の自分だったのなら烈火の如く怒り、散々男に対して罵詈雑言浴びせた後、不貞腐れて見せた。
今はもう、余計な言葉がつく方が心持が悪くなる気がしてしまうくらいには慣れた物で。
この男がぶっきら棒に寄越した『おめでとう』。
それは、今日が俺の誕生日だからに他ならない。
まだこの日になって数分しか経っていない。
だから、誰よりも早く、この男が祝いの言葉をくれた事になる。
・・・いいや、昔からそうだった。
この男はいつだって、誰よりも早く自分に何かをくれる。
言葉も、想いも、約束も、全てこの男が最初。
もう誕生日など、疾うに意味を失っているけれど。
それでも必ず最初に祝ってくれるこの男。
同じ時を刻めない異質に、毎年、律儀に、産まれたこの日を祝うのだ。
1つ年を重ねた所で、今の自分は何1つ変わりはしないのだけれど。
・・・それでも、この男が祝ってくれる事は、素直に嬉しかった。
「昼には九軒達も来るだろう」
「そうだな」
「・・・だから、その前に聞こうと思ってな」
「・・・そうか」
空になったグラスを置き、男がコチラを見遣る。
鋭い眼は、言ってしまえば遠慮なく、知らぬ相手には威嚇すらしている様に見えるが。
それでも自分は、この男の迷いの無い瞳に映り込む事は、割りに好きだった。
何もかも見透かす様な瞳は、今は心地が良い程に。
「・・・お前の願い」
「・・・」
「願い、聞きに来た」
男が簡潔に言う。
・・・そう、この男は今日、自分の願いを叶えてくれる為に来た。
「お前、俺の誕生日に言ったな。俺の願いを叶える代わりに、お前の願いを叶えろって」
「ああ、言った」
「互いの願いが、願いへの対価になるって」
「言った」
「・・・俺が誕生日に言った願い、覚えてるか」
「忘れる訳ねぇだろ」
3月。
桃の節句を祝うこの日が、男の産まれた日であった。
その日、男は物を欲しがらぬ代わりに、何が欲しいかと問う自分にこう言った。
『ずっと、お前の作る飯が食えたら良い。傍に居続ける事が出来るなら、それで良い』
それは欲しいと言うよりも、願い。
このミセにいざなわれ、フラリ入り込む客達と同じ、願い。
ああ何だ、自分の本業ではないかと、その日は久々に大きく笑った物だ。
真剣そのものだった男は少々不服そうであったが、それでも、愉快だった。
この男の願いが、自分にとって何とも都合の良い物であった為、笑いが止まらなかった。
そしてその時、自分はお決まりの台詞を、店主として男に言い渡した。
「・・・願いを叶えるには対価が必要だと、お前は言った」
「言ったな」
「その対価は、お前の誕生日に支払えと。対価とは、お前自身の願いだと」
「そうだ」
そう。それが今日。
この男が対価を払う日。
いいや、払うと決まった訳ではないけれど。
対価の要求が呑めぬなら、この取引は破談となる。
即ち、男が言った願いは叶わぬまま、ただの願いとなって朽ちて終わり。
まるでそれが、正しい選択なのだと、正しい理なのだと知らしめる様に潔く終わるのだ。
ああ、でも。
自分は男に優しくはないが、男が自分に優しい事は十分熟知している。
男の願いは、今日、叶うだろう。
問い掛けを待つ自分に、男は予想通りのそれを投げる。
「・・・対価は、お前の願いは何だ」
男の言葉に、薄く笑みを浮かべる。
そう、きっとこの男は、自分の願いを叶えてくれる。
その膨大な対価を払う事に、一切の躊躇いを抱かずに。
答えを待つ男に、すっと指で示す。
男が素直に眼で追ったその先は、先に迷い込んだ、散った後の2枚の花弁。
まだ淡い色を保つ、舞ったばかりのそれ。
男は、じっとそれを見つめた。
「・・・桜?」
「そう。・・・綺麗だろ?」
「・・・ああ」
「2枚とも、まだ瑞々しくて、綺麗な色で、同じ」
「・・・」
男は黙っている。
元より口の多くない男ではあるが、年を重ねてからは更に寡黙になった。
けれど戸惑い言葉を失くす時には、こうやって、今の様に、少しだけ眼が泳ぐ。
今この男は、脈絡も無く始まった自分の話に、大層戸惑っている様子であった。
「でも、片方の花弁は、このまま綺麗なんだよ。ずっと、変わらない。
・・・けれどもう片方はごく普通の花弁だから、いつか茶に変色して、
瑞々しさも失い、皺々に枯れ、朽ちて、土に還るんだ」
今度は男が、真っ直ぐに自分を射抜いて来た。
強い意志の浮かぶ自分の右目と同じ色の眼。
勘の良い男は、花弁の末路を何と重ねているのか、察した事だろう。
何か言いたげだが、自分の話がまだ終わっていないのだと、口を開く事は無い。
「・・・なぁ、お前はどう思う?」
「・・・どうって」
「こうしてピッタリくっついていても、同じ結末は迎えない。
片方だけが不変で、片方が正しく朽ち果てる。それをどう思う?」
「・・・・・・」
「俺はな・・・」
答えない男に、三日月の様に唇で弧を描き、教えてやった。
自分の願いである、その答え。
「1枚の花弁がいつまでも鮮やかな色彩を失わず。
1枚の花弁が正しく色褪せ朽ちていくくらいなら。
いっそ、正しく朽ち果てる運命にある花弁も、永遠に咲き誇り続ければ良い」
時間が絆を引き裂くなら、自分と同じく時間を止めてしまえ。
正しい存在であるが故に離れゆくなら、自分と同じく異質になってしまえ。
男は、何も言わない。
ただ、その眼が泳いでいない所を見ると、戸惑いは無い様子であった。
沈黙は、嫌いではない。
ましてこんな風に、男が自分を裏切らない答えを持っていると、確信している今は。
笑う自分を見つめ続ける男は、変わらぬ無表情のまま、徐に口を開いた。
「・・・それが、お前の願い、対価か」
「そう。俺はずっと、お前から離れない。お前が願うように、お前の傍にいるよ。
けど、それはお前が普通の人である以上叶えられない。なぁ、そうだろ?」
「・・・そうだな」
「俺もお前と一緒にいたいよ。でもさ、お前が先に逝ってしまったら、残された俺は?
お前の願いはそれでも叶った事になるだろうけど、俺はどうなるんだ?」
ああ、やっぱり自分は、この男にだけは優しくなれない。
きっとこの男でなければ。
誰でも良い。この男以外の人であったなら。
自分は優しい声色と微笑で、ずっとなんて一緒にいられないんだよ、と。
それでも貴方の生がある内で良いならと、言ってやっただろう。
この時の止まったミセに縛り付ける事などせず、茨の籠に鎖で繋ぐ事はどせず。
正しい理から突き放す様な真似など、決してしなかった。
そう、この男でなかったら。
・・・この男だからこそ、自分は優しい言葉を掛けず。
男の優しさを知りながら、男の願いを利用して、自分の願いを叶える事を選んだ。
この男を、想い人の生を、不変と言う異質に歪める事を。
「・・・四月一日」
男の声が、呼ぶ。
低い声色は、いつだって自分を優しく満たしてくれた。
今も、そう。
男の声は、優しい。
自分の示した対価すら、恐ろしいとも思わぬ様に。
「・・・俺の願い、叶えて貰う」
「・・・対価、払うのか?」
「ああ」
「・・・一応聞いとくけど、後悔は?」
「愚問って知ってるか」
「ほざけ、馬鹿」
ああ、本当に馬鹿だ。
馬鹿で優しくて、愛しい人。
決して幸せではない筈の選択肢を、未来を、運命を。
自分の為に全てを捨てて選んでくれた、優しい男。
対価と願い。互いの要求、利害。
それらが一致したのならば、後はもう、退路を断たれた暗闇に腰を下ろす。
2枚の花弁は、朽ちる事無く、色鮮やかなまま、永遠に動かない。
「良い誕生日になった。きっと、一生忘れないな」
「・・・そうだな」
「ひまわりちゃん達は、驚くかな。それとも、怒るかな?」
「絶句はされそうだな」
男は何て事なく、新たに注いだ酒を煽り、簡潔に言った。
旧知の友は、きっとこの取引を歓迎しない。
けれど、否定もしないだろう。多分、諦めた様な顔で、受け入れる。
そして、自分が1人になる事は無いのだと、何処か安堵も見せてくれるのだ。
・・・ああ、自分の周囲には、優しい人ばかり。
・・・この男は、殊更、優しかった。
取引の完了した互いの願いは、何よりの誕生日プレゼントで。
夜に似つかわしくない清々しい心は、桜をより一層美しく映した。
一瞬にして美しく咲き誇り、一瞬にして儚く散り行くさだめの花。
そう、短い生を華やかに咲かせ、潔く散り行くからこそ、桜は美しい。
異形となり、永遠に生き長らえ続ける花は、果たして美しいと思えるだろうか?
散る事も無く、ただただ咲き続け、散る事も出来ず。
理に逆らい異質のまま常に存在し続ける花を、10年後にも同じ様に美しいと思うだろうか?
長い永い時間、不変の桜を見続けて、今日の様に美しいと言い続ける事は出来るだろうか?
ああ、まさに愚問。
「なぁ・・・桜が綺麗だな。
・・・百目鬼?」
END.
ツガイになった花の唄。枯れなくても歪でも、傍にあるだけで美しい。
四月一日君がミセを継いで10年経ち、魔力も強くなった頃のお話。
雨黙の四月一日君はヤンデレ&百目鬼君以外見てないので、こうなった。
他の人には限りなく優しくできるけど、百目鬼君には欲望が先に来る。怖い。
これで晴れて永遠に百目鬼君とミセの中で暮らせます。やったねたえちゃん四月一日!
百目鬼君は四月一日レプリカみたな体なので、外には出られます。ただ必ず四月一日の傍に帰る。