「侑子、酔ったのかい?」


月を映した杯の泉を見つめながら、エリオルは問う。

それは、自分を後ろから蛇の様に抱擁する、1人の女へ。

抱擁と言うよりも、縋り、腕を絡めている様子の彼女は、侑子と呼ばれた。


「さぁね、どうかしら」


とても酔っているとは思えぬ涼しい声で、侑子はその問いに曖昧に答えた。
黒く艶のある長い髪を背に流し、緋の鮮やかな着物を白い肌に纏いながら。
その緋に負けぬ紅の差された唇で、エリオルの髪をそっと撫ぜる。
彼女の唇を絹糸の様な黒髪に感じながら、エリオルはゆっくり微笑んだ。

「君が酒に酔うとは思えないけれどね」
「あら、失礼ね。人をなんだと思ってるのかしら」
「女性に失礼だったかな?いや、君はとても酒に対して礼儀のある人だから」

子供の姿でありながらも、それより何倍もの時の流れを受けた彼は、静かに杯を傾ける。
薄く濁った酒を、その白濁にも劣らぬ白い喉を鳴らして受け入れ、ふぅと吐息を漏らした。
黒紫の水晶の様な眼は、背後から自分を抱く彼女を見とめる事が出来ない。
一体彼女は、素面の状態で何をじゃれているのかと、大きな瞳を少しだけ横へと流した。

「では、月にでも酔ったのかな?」
「そうね・・・今夜はとても月が綺麗だから」
「おやおや、何とも艶のある台詞だ」

月が綺麗だと。
ああ何とも浪漫溢れる愛の言葉だと、エリオルは空の杯を揺らして笑う。
そこに本気の色など欠片も無く、旧知の女性をからかう愉しげな色だけが浮かんで。
それでも侑子はそれに笑い返す事も無く、月の静寂と良く似た声で彼の耳に言葉を流し込んだ。


「どうせ・・・今の貴方は受け取ってくれないでしょう?」


エリオルが笑みを止めた。
今度こそ顔ごと彼女へ振り向こうとするが、絡みついた腕がそれを許さない。
ただ、彼女の唇の気配を耳元に感じたまま、エリオルは少し眼を伏せた。

それと同時に思い出す。
ああ、彼女と過ごした、過去の自分。

「・・・そうだね、私はクロウではないから」
「知ってるわ。・・・死者は、もう2度と・・・蘇る事はないもの」
「ああ、クロウはもう、いないんだよ」
「・・・そうね」

何度も月を見た。
酒の肴は彼女のリクエスト。
上等な酒の入った瓶を傾け、2人美しい月を眺めた。

今と変わらぬ場景が脳裏に浮かぶ。
けれども、今はこんなにも、悲しい。

「・・・ねぇ、エリオル」
「何だい、侑子」
「少しこのまま・・・眠っても良いかしら」
「・・・構わないよ、好きなだけ、眠りなさい」

侑子が眼を閉じる気配がする。
視界から月を追い出し、無限の暗闇を迎え入れる。
閉じた目蓋の裏側、やって来る黒の世界に、彼女は誰かを探している様だった。



「         」



侑子が、小さな小さな声で。
それこそ、自身の鼓動に掻き消されてしまいそうな小さな声で。

一言、誰に問うでもなく、呟いた。













「柊沢」


呼ばれ、はっとする。

ふと遠退いていた意識を手繰り寄せれば、今は麗らかな日差しさす午後。

自身の庭にあるベンチの上だった。

「どうしたんだ、ぼーっとして」
「・・・すみません、ちょっと意識飛んでました」

下から問い掛けてくる声に、エリオルは顔を俯かせて答えた。

声の主、自分の恋人である李小狼を、安心させる為に。

「・・・足、痺れたのか?」
「いいえ、ただ、考え事を」

エリオルの膝を枕にして寝転がる小狼は、不安そうな表情を隠さない。
彼がこんな風に、自分の呼ぶ声にすら反応せず考え込む事など、そうそうない。
よもや体調が悪いのかとも思ったが、どうやらそうではない様だと首を傾げる。

するとエリオルは、少し悲しそうに微笑み、ポツリと呟いた。
何にせよ、黙ったまま彼を心配させるのは本意でない、と。


「・・・私は、本当に色々な人の人生を狂わせてしまったな、と」


静かに始まった、何の脈絡も無い不穏な話を、小狼は眉1つ動かさず聞く。
そこからどう言った結末に彼の物語が進むのかはわからないが、今は黙って耳を傾けた。

「そして、その人の事を置いて、私はこの世を去ったのだから、始末が悪い」

昨日、何かあったのだろうかと、小狼は思う。
考えれば、昨日侑子のミセで飲んで帰って来てから、様子がおかしい。
彼女とエリオルが、いや、クロウが旧知の仲であった事は小狼も知っている。
恐らくその関連の出来事が彼の心を酷く引っ掻いたのだろうと、エリオルの顔から視線を逸らさず思った。

「そして私はまた、同じ過ちを犯したかもしれない」

小狼を見つめ、エリオルが言った。

何の事だと、小狼が眼で問う。


「・・・貴方も、私に会わなければ、もっと違う、平穏な人生を歩めたのに」


その言葉を聞いて初めて、小狼の眉が不快そうに顰められた。

それまで黙って話を聞いていたが、耐え切れず声に出して彼に問う。

幾分、責める様な棘も含めて。

「・・・何だ、それ」
「私と出会う事は必然だったかも知れない。けれど、身も心も愛し合う関係にならなければ。
 例えば、貴方は桜さんの様な可愛らしい女性と恋に落ちたかもしれない。
 そして、心を結び子を成し、何の障害も無く、平穏で暖かい幸せな人生を歩めたかも知れない」

人生において、もしかしたら。と言うのは反則かも知れないけれど。
それでもと思ってしまう。

愛しい少年。心も身も委ね、彼もまた心を預けてくれた。

そう、昔の侑子の様に。

その結果はどうだろう。
自身の強過ぎる魔力と身勝手な願いで、愛した女性の人生はどうなった。
この少年の人生は、愛している彼の人生は、これから一体どうなる。


エリオルが眼を瞑る。

自分を想ってくれる人。
その人は、自分を愛す事で不幸になる。
それが必然だと言うならば、自分はどれ程の業を背負っているのだろうか。

優しく真っ直ぐな愛しい少年。

願わくば、彼の人生は幸せで平穏な物であって欲しい。

自分といる以上それが望めないのであれば、今、彼に伝えておきたかった。


可能性はいくらでもある。

今からでも遅くない。

子も成せぬ同じ性の自分では、彼を平穏な未来へと導くには役不足だ。


そう声にして続けようとした所で、それは優しい制止にとどめられた。


「・・・李君」


少年の手が、彼の白い頬を撫ぜる。
コレ以上喋るなと制止している様にも見えるその手は、ゆっくり熱を伝えてきて。
その心地好い熱にエリオルが眼を開けると、真っ先に小狼の顔が視界に飛び込んで来た。


真っ直ぐな、強い、少年の瞳。


ああ、何て眩しいと、エリオルは眼を細める。


「・・・これから先」


小狼が口を開いた。
怒っているであろう少年の声は、比較的穏やかで。
けれど、その奥に芯の強さを感じさせる色を見せながら、淀む事無く言葉が紡がれる。


「・・・これから先の人生、例えどんな辛い事が、困難があっても。

 ・・・お前が、俺の隣にいてくれるなら・・・

 ・・・・・・俺は、何の後悔も無い」


真っ直ぐな少年の、真っ直ぐな言葉。
幼い誠意に、エリオルは悲しそうに笑った。
自分はまた、この少年を縛ってしまったのかも知れない。
今の問いによって、少年の未来を決めてしまったのかも知れない。

それでも同じくを願う自分に、笑う。

自分を愛してくれた、自分が愛した女性が。
自分を求めても愛を返せない自分が。

この少年の愛を求め、愛を返すのか。

何とも酷い事だと、泣きたくなった。


それでも。


「・・・ありがとう、李君。・・・貴方が望む限り、ずっと、貴方の傍に」










『いつになったら・・・貴方の傍にゆけるのかしら・・・クロウ・・・』


昨夜、耳元で零された彼女の言葉。

エリオルは、少年の体温を感じながら思う。


きっといつか、深い深い眠りについた、その果てに。


自分は、彼女の愛した彼は、そこに待っているだろうと。


そして、昨夜と同じ様に酒を用意して、君のリクエストの肴を作って。

並んで月を見上げながら、君が言う前に君の愛した彼は言うのだろう。



自分が返してやる事の出来なかった言葉を、君に。
























END.

クロウ×侑子前提のシャオエリ。
複雑過ぎるけれど複雑な恋愛事情は原作者様十八番な筈。
エリオル君・・・もといクロウさんはきっと、泣かせた女は星の数。
でも侑子さんとだけはお互い心の内を知り尽くした本気のお付き合い。
そして侑子さんをこの世に留めて置きながら先に逝ったクロウさんを
今も想い続けその傍にいく事を願っている侑子さん。
その想いを知っている為苦悩するエリオル君と通常運転の小狼君。
小狼君は超男前。過去なんて気にしません。未来はエリオル君さえいれば良い。