走る。
走る。
荷物を持った人間の海の間を縫いながら。
風の様に擦れ違った女は、驚いた様に視線を寄越す。
荷物にぶつかった男は、眉を顰めながら俺を見る。
それでもそんな事すら、構う余裕もなく。
息を切らせながら、足を縺れさせながら、ただ1人の姿を必死に探す。
『流石に、何の挨拶もせず帰るのは気が引けまして』
さくらさんにも内緒だったのですが。と、突然電話を寄越して来たアイツ。
それは、俺の心臓を酷く煩くさせるのに十分な内容を告げる為に。
『今日、イギリスへ帰ります』
小学校の卒業式を数日後に控えた今日。
アイツは、何て事ない日常会話の様なトーンで、そう言った。
電話越しにもわかる、あの優しげで、楽しそうな微笑で言ったのだろう。
『今まで、色々とお世話になりました』
俺に何かを言わせる間もなく、アイツは話を終えようとした。
いや、あまりに唐突すぎて、心も頭もついていかず、言葉すら思い浮かばなかったけれど。
『・・・お元気で』
それでも、電話が切られる無機質な音を聞いた途端、身体が勝手に動いた。
叩き付ける様にドアを開けたのは覚えている。
後はただただ、夢中で走って、鋭い風を切ってきた。
その最中にも頭にあったのは、『アイツに伝えなくちゃならない』と言う事だけ。
アイツがいなくなる。
今を逃したら、2度と会えないかも知れない。
俺はまだ伝えていないんだ、アイツに。
一番大切な事を伝えていない。
どうやって乗ったかも覚えていない電車を降りて、無闇に探し回った空港。
まさかもうゲートを潜ってしまったのかと嫌な予感を感じたその時。
見つけた。
ずっと探していた後姿。
黒い、サラサラした髪。
小さくて細い背中。
抜けるように白い肌。
声を邪魔する激しい呼吸を何とか飲み込み、腹からアイツの名を叫ぶ。
「柊沢!!」
広い空港内に、空気を震わせる様に響いた、俺の声。
周囲の人間は何事かと俺を凝視した後、何事もなかった様に再び歩き出す。
そんな中アイツは、少しだけ驚いた様に目を見開き、静かに俺を見ていた。
「・・・早かったですね、李君」
まさか間に合うとは思いませんでした。と、相変わらず悪戯っぽい笑顔で言う。
本当に思っていなかったのだろう。それがコイツの嫌な所だ。
間に合わないとわかっていて、わざわざ俺に、経つ直前に連絡を入れて来る、嫌な奴。
きっと飛行機が離陸した後、息を切らせて空港に着いた俺を想像して、面白がっていたに違いない。
ああ、本当に本当に、相変わらず嫌な奴。
でも俺は、そんな嫌な奴に、どうしても伝えなくちゃならない言葉がある。
「・・・なんで、急に」
「本当は、5年生の内に帰る筈だったんですよ。・・・でも、急遽延期したんです」
「延期?・・・なんでまた・・・」
「さぁ、何ででしょう?・・・きっと、この場所が思いの他居心地良く、楽しかったからだと思います」
含ませた声色で、アイツは答える。
いつもの笑顔で。優しい笑顔で。
胸が痛い。
息切れの所為じゃない、ずっと走っていた所為じゃない。
もうコイツのこの笑顔は、見られないかも知れないのだ。
「連絡先は・・・」
「教えてあげません」
「なっ・・・なんで!」
「教えたら貴方は・・・私と、これからも連絡を取り続けるのでしょう」
当たり前の事を言う。
連絡を取る為に連絡先を聞くんだ。
なのにアイツは、それを拒む。
胸が痛い。
隠し切れないくらいに、ズキズキ痛む。
もうコイツのこの声も、聞けなくなるのだろうか。
「ねぇ、李君」
「・・・なんだ」
「私は貴方より、大分年上です。だからこそ、貴方とは離れたいんですよ」
「どう言う意味だ。訳がわからない・・・」
柊沢が、曖昧に言葉を告げて来る。
何を言いたいのかわからない。コイツの言葉はいつも、酷く不明瞭だ。
「貴方が私を此処まで追い掛けて来てくれた理由も、わかっています。
それは、別れの挨拶の為だけでは・・・ないのでしょう?」
そして、言葉は謎掛けの様に遠回しな癖して、人の心を見抜くのは鮮やか過ぎて。
こっちはつい、言葉を無くしてしまう。
何も言えない。どうしても言わなくちゃいけない一言さえ。
「貴方はまだ子供だ。これから多くの未来が・・・出逢いがある。私は、まだ未熟な貴方を縛りたくは無い」
一瞬真剣に、紫がかった大きな瞳で俺を射抜き、柊沢が言う。
まるで魔法を掛けられた様に、俺の身体は緊張し、ピンと固まる。
「そして・・・多くの出来事を、出逢いを、別れをその身で経験する内・・・
今の貴方が抱く気持ちの本質が見える日が訪れるでしょう。
・・・貴方が今、私に感じているそれが、一体何なのかを知る日が」
それから少し眼を伏せて、続ける。
笑っている癖に、言葉は酷く静かだ。
「それにはまだ、貴方には経験が圧倒的に足りない。
未熟で曖昧なそれを確信していない貴方を縛る事は、私には出来ません」
コイツの言っている言葉は、やっぱり、わからない。
それでも漠然と、コイツは俺がコイツに伝えたい言葉の全てを否定しているんだと、思った。
そんな事させて堪るか。
コイツから見たら俺は完全に子供だろう。
コイツから見たら俺の気持ちは、子供のお遊び程度なのかも知れない。
けど。
例え俺が子供でも、もしもこの気持ちが、お前にとっては違うと感じる物でも。
俺にとっては、紛れも無い本当の気持ちだ。
歯痒さに拳を握り締める。
胸が痛い。痛くて、痛くて、思わず眉を顰めた。
そんな俺を見て、柊沢が優しく微笑む。
いつも見ていた、コイツの笑顔。
柊沢が何かを言おうと口を開いた瞬間
搭乗を促すアナウンスが、俺達の間を引き裂いた。
「・・・そろそろ、行かなくては」
コイツが踵を返そうとする。
咄嗟にその白い手を掴み、引っ張り寄せて。
驚いた様子で俺へ振り返るコイツの顔を、間近で睨んで。
もう時間が無いんだ。
コイツが何と言おうと、俺の今の気持ちは、伝えないと確実に後悔する。
物事に対する経験が、過ごした時間が少なくても、それくらいは俺にもわかる。
俺を見つめて来る柊沢の眼をしっかり見ながら、さっきからロクに動いていない口を無理矢理開いた。
「お前が何と言おうとっ・・・俺は・・・っ、俺はお前が」
その先は、言えなかった。
柊沢の香りが濃い。
閉じたコイツの眼に掛かる睫毛が、やたらと長い事を今知った。
前は同じだった身長が、いつの間にか俺より低くなっている事も。
桜色の唇が、とても柔らかい事も。
「・・・ひい、らぎ・・・」
それは一瞬だった筈なのに、やたらと鮮烈なイメージを焼き付けた。
事態を飲み込めない俺を置き去りに、顔を離した柊沢は、やっぱり笑っている。
・・・何処か大人びた、寂しさを滲ませる笑顔で。
「その言葉の続きは・・・いつか、逢えた時。
その時に、貴方の気持ちが変わっていなかったら・・・・・・聴かせて下さい」
サヨナラ。
小さい言葉が耳に届いた時には、既にアイツはゲートを潜っていた。
今更手を伸ばしても、アイツは振り返らない。
もう届かない。
手も、声も、気持ちも。
届かない所に、行ってしまったんだ。
『また』なんて、唯一縋れる気休めすらも無く。
アイツは・・・別れの言葉と、言えなかった俺の気持ちだけ残して。
END.
ズルいエリオル君と一途な小狼君。
まだ貴方は子供なんだから。と、彼の恋愛感情を頭ごなしに否定。
でもそれは、エリオル君も彼をそう思ってるから。
小狼君の気持ちを受け入れて、彼が成長した後にそれがもし違う感情だったら。
自分は確実に恋愛感情を持っていたのに、彼はただの友情だった。と、もしいつかなったら。
その時傷つくのを避ける為の予防線。経験豊富な大人のズルさ。
でもきっとエリオル君は高校辺りで戻って来ます。
その時こそ、大人になった小狼君からは、ズルく逃げられないと思います。