「ねぇ、狗守鬼・・・貴方は、人間が好きですか?」
小瑠璃が控え目に聞く。
オドオドとした彼の表情は、それは蒼く。
狗守鬼は、気味の悪さを覚えながら、無機質に返した。
「どっちでも?」
その彼の返答に、小瑠璃は戸惑う。
彼の言葉からは、いくつかの答えが見える。
だがその内、正解があるのかはわからない。
けれど何となく、少しでも希望を持てる答えを聞きたくて、まず頭に浮かんだ答えを問う。
「・・・それは、好きな所も嫌いな所もあるって事ですか?」
小瑠璃が狗守鬼の背中を見る。
狗守鬼は少し間を置いてから振り向いた。
「違う」
簡潔な答えに、小瑠璃はまた、戸惑う。
違うのでは、何だろうか。
彼は、人間に、特に興味が無いのだろうか。
それが正解な様な気もするし、何かが違う気もする。
「・・・では、どう言う意味ですか?」
問うと、狗守鬼は小瑠璃を見たまま、少し考える。
それから、極めて疑問に思う声で、問い返して来た。
「お前は、精肉用の牛や豚に対して、好きだの嫌いだのなんて感情を抱くの?」
小瑠璃の目が見開かれる。
それは驚きもあり、衝撃もあり、恐怖でもあり、酷い悲しみの意味もあった。
「・・・え?」
小瑠璃が声を絞り出す。
何かを言おうとしたのだけれど、出て来た声はただそれだけ。
狗守鬼は、琥珀色の眼で小瑠璃を見る。
「忘れた?俺達鬼にとっては、人間は餌にしか過ぎないって事」
彼はあまりにも人間らしく。
それでいてあまりにも惨忍な魔物であると、小瑠璃は思っている。
面も声も氷の様に冷たいけれど。優しさがある半分の鬼。
だがこう言う時、否が応でも悟る。
いくら人間の様な優しさを見せても、所詮彼は人喰い鬼。
「餌に対して、愛してるだの何だの、ある訳ないだろ」
何を当たり前な事を。
そうとでも言いたげに、狗守鬼は肩を軽く竦める。
それは何処か人間染みた仕草で、小瑠璃は困惑した。
「・・・狗守鬼・・・貴方は・・・」
何かを言いたい。
でもやはり、その何かは喉に詰まり、息する事さえ許さない。
ただただ、彼が化生だと認めてしまうのが酷く悲しくて、どうにか縋りたかった。
自分勝手な考えだがと、小瑠璃はわかっている。
彼が人間を餌と見ている事。それは良くわかっている。
だがそれが、どうしても嫌なのだ。
人間を餌と見る彼が、どうしても怖く、嫌なのだ。
それ自体、狗守鬼の種族を否定していると言う事に、小瑠璃はまだ気付いていない。
「・・・人間達は、何でも食う」
狗守鬼が一言、機械の様に呟いた。
小瑠璃が、暗紫色の瞳を彼に向ける。
彼は相変わらず無表情だ。
「戦わなくても、争わなくても、食える物はその辺にある
豚や牛を殺しても食べるけど、別にそれだけしか食わないって訳でもない」
狗守鬼の眼が、微かに紅い気がした。
鬼の気配を悟り、小瑠璃の体がブルリと震える。
鬼である狗守鬼は、恐怖。
妖力の弱い小瑠璃は、鬼の前では弱者に過ぎない。
本能に刻み込まれた、強者と弱者の決められた関係。
「けれど、鬼は違う」
狗守鬼の声が、低く響く。
彼の頬の紋章が鈍く光った様にも見えた。
ただそれは、一瞬で。
小瑠璃は気付かず、彼の言葉を待った。
「鬼が生き残る為には、自分よりも弱者である妖怪や、戦闘能力を持たない人間を食すより他無い。
鬼の妖力は莫大。それを意地する為には強い生命力が必要だ。
その生命力を補うには、栄養価の高い餌が求められる。
栄養価の高い餌と言ったら、知能のそれなりにある高等な生物。
だが地位の低い妖怪の中に栄養価の高い奴等なんか、ほとんどいない。
鬼の位は高位にあるけれど、だからこそ、他の高等妖怪が希少である事も知っている。
だから鬼は、高位の妖怪の絶滅を防ぐ為に、高位の妖怪を食べない。
・・・そうなると、魔界に餌は、無い」
狗守鬼が無機質に、事務的に、機械的に。
声の調子を一切変えぬまま、小瑠璃に言葉を紡ぐ。
それは何かの辞書にある言葉の様で、小瑠璃は意味を1つ1つ咀嚼しながら、それを聞いた。
「人間は栄養価が高い。無駄に知能もあるからね。
更に戦闘能力も無いと来たら、これがどうして餌にしない事がある?
・・・小瑠璃、お前は俺が人間達を餌と見なすのが、どうにも不快な様だけれど。
生きていく為には仕方が無い。
これは生存競争。
この世界は弱肉強食。
強い者ですら、生き残れないかも知れない世界。
そしてそれは、既に決められている掟。
生き残る為には、仕方の無い事」
珍しく、狗守鬼が長い話をした。
その辞書的な話を、小瑠璃はまだ噛み砕く最中だった。
自分は霊界に産まれた。
父は化生なれど、その血は薄く。
そんな生存競争など知らない。
生き残る為の術など知らない。
ただ自分は、心地好い霊気に守られて過ごすだけ。
そう思うと、狗守鬼の影が、また遠のいた様に感じた。
「小瑠璃」
狗守鬼が不意に言う。
彼は相変わらず、無機質。
「お前は、俺に鬼らしい一面を見せて欲しくないみたいだけど・・・
こればかりは仕方ない。
鬼の一族は、人間を餌としか見られない。
それ以上でもそれ以下でもない。
人間はただの餌。
お前達が食べる魚や鳥達と同じ餌。
だって、俺達の遺伝子には、もうそう言う情報が刻まれているんだから。
・・・俺達は、人間を餌とする種族なんだから」
狗守鬼が言う。
小瑠璃は淋しそうに俯いた。
狗守鬼は、自分の種族が否定された事を、何とも思っていない。
「・・・・人間を、餌以上に思ってはならない」
狗守鬼の一言に、小瑠璃は顔を上げる。
狗守鬼は、じっと小瑠璃を見ていた。
「お前達は・・・いいや、人間達もだ。
例えば、魚を食べる時。
その魚を愛しいと思い、哀れに思い、お前の言葉を借りるなら好きだと思い
それを食する自分を嫌悪するの?
例えば、牛を食べる時。
苦しそうな悲しそうな、恐怖に震えた牛の最期の悲鳴を思うの?
そしてそれに対し哀れみを感じ、餌となる運命の牛に恋愛に似たそれを向けるの?
・・・・そんな事してたら、いずれ何も食えなくなる」
小瑠璃は狗守鬼を見て何も言わない。
ただ、少しだけ、驚きにた表情を浮かべていた。
「・・・人間達の場合、無駄に優しいし、愚かだからね。
もし全ての人間がそうなったなら、きっと哺乳類は食べなくなるだろう。
・・・でも良いよね。人間は米も食べられる、豆も野菜も食べられる。
蕎麦もあるよね。飲み物だって、たくさんあるし。
・・・でもね
鬼は、人間しか食べないんだよ」
小瑠璃が悲しそうな顔をした。
頭に氷の棒を突っ込まれた気になった。
狗守鬼は少し、自嘲気味な笑みを浮かべた。
「・・・人間しか食べない鬼が、もし、人間に恋をしたら・・・?」
狗守鬼の声が笑っている様に聞こえた。
「人間に特別な感情を抱いたら?人間を餌と見られなくなったら?」
小瑠璃は狗守鬼を見詰める。
だが、狗守鬼はそれ以上何も言わなかった。
「・・・まぁ俺は混血だから、人間以外にも・・・何でも食べるけどね」
少し物寂しい沈黙が降りた後、狗守鬼はいつもの調子で言った。
呆れた様に肩を軽く竦めて。
「肉嫌いだし。人間の肉はグチャグチャ水っぽくて不味いし・・・眼球はゴリゴリしてて好きだけど」
そう言いつつ、彼はクルリと踵を返す。
再び向けられた背に、小瑠璃は慌てて声を掛けた。
「狗守鬼!・・・雷禅さんが・・・貴方の御祖父さんが・・・・・・人間を食べなくなったのって・・・・・・・」
狗守鬼は、軽く手を振るだけで、何も答えなかった。
ただ、何となく、それは肯定している様にも見えた。
去って行く狗守鬼に、小瑠璃は知らず手を伸ばす。
最後に1つ、狗守鬼が小さく呟いた。
「鬼を殺したいなら、人間に恋をさせれば良いよ。
・・・俺は、祖父さんみたいに人間に恋なんかしないけどね・・・
だってもう、どっかの可愛い龍に、恋してるから」
冗談めいたその口調。
そこから本気の言葉なんて1つも見当たらないけれど
聞き取れなかった小瑠璃がん?と聞き返すが
もうそこに、鬼の姿は無かった。
END.
『餌に特別な情を抱いてはならない』
鬼の誓約。禁忌。
それは即ち、自身の否定であるから。
それにしても狗守鬼と小瑠璃はペア率高い。
いや、狗守鬼&花龍のがもっとか。
最後の狗守鬼の台詞は、半分、冗談。