「く・・・す、ぎ・・・?」
コエンマの喉から、搾り出す様な声が漏れる。
それはすでに音としては弱過ぎて、吐息に微かな音が引っ掛かる程度の物だった。
けれど、その掻き消えそうな声に、狗守鬼は反応を示した。
もう”鬼”になってしまった、狗守鬼の赤い眼に、コエンマの顔が映り込む。
それに浮かぶのは、驚愕・怒り・恐怖・絶望・・・それらを覆い尽くさんとする、深い悲しみ。
捕食者の眼の赤さに負けぬ赤い液体が、コエンマの顔を見つめる狗守鬼の顔を彩っている。
頬の紋章よりも鮮烈な、赤。赤。血の、赤。
全身が血塗れだ。
何故。
彼は一体、何をした。
コエンマの身体が微かに震えている。
彼が何故血に塗れているのか、その手を見れば。
そして、彼の足元に散らばる残骸を見れば、明らかである。
血の海に沈む、金の髪飾りと、見慣れた黒い装束を見れば。
「・・・な・・・ぜ・・・」
ああ、あの金の髪留めは、いつもあの少女の艶やかな桜の黒髪を結わいていたのに!
あの黒い装束は、少女の父と揃いなのだと、彼女の父は笑っていたのに!
あの愛らしい顔は、少女の母と瓜二つだと、美しい貌はまだ脳裏に焼きついているのに!
黒い、それでも美しい桜の、いつも狗守鬼の傍にそっと佇んでいた、あの少女!
彼女の美しい黒髪は。
彼女の白い肢体は。
彼女の愛らしい貌は。
彼女の血の様な赤い瞳は。
ああ。ああ。
もう、この世に存在しないのだ。
もう、この男の血肉となり、個として存在出来ぬのだ。
「く、すぎ・・・何故・・・だ・・・何故、何故花龍を喰った・・・!?」
叫ぶ声は掠れている。
喉が痛い。
心が痛い。
狗守鬼は、そんなコエンマの痛みすら無視して、口元の血液を血に塗れた指で掬う。
魔族の紋章。
鬼。
化生。
もう彼は、自分の知っていた狗守鬼ではなくなってしまった。
”狗守鬼”はきっと、死んでしまったのだ。
・・・今此処にいるのは、一匹の、人を喰う鬼。
「・・・コエンマさん」
変わらぬ声で、狗守鬼が呼ぶ。
コエンマは縋る様な思いで彼を見た。
「最期に逢えたのが、アンタで良かった」
「狗守鬼・・・狗守鬼、お前に何があったんだ!何で、どうして・・・!!」
狗守鬼には、もう言葉が届かない。
いいや、今はまだ辛うじて。
でも、もう、すぐに。
だから今の内に、狗守鬼の心を聴いておきたかった。
まだ鬼ではない、”狗守鬼”として存在している内に。
「・・・いつか来る日だったんだ」
「狗守鬼・・・」
わかっては、いたのだ。
彼は鬼。
人喰い鬼。
愛した女を喰らう、哀しい鬼。
一人の女を愛した、あの男の血を引く、鬼。
いつかその強大な鬼の気配が、制御出来ないまでになったのなら。
狗守鬼は、完全に鬼になってしまうだろうと。
そして、鬼になる時。
愛した女をどうするかなぞ、考えるまでもなかった。
それでも、いくらなんでも、早かった。早過ぎた。
ああ。でも。もう。
「コエンマさん」
狗守鬼の声はあくまで涼しい。
いつもの”狗守鬼”の声。
その日常会話の様な声色に、コレは性質の悪い夢ではないかと逃避に縋る。
しかし、鼻を突く血臭は酷く。
彼の妖気は、あの闘神より禍々しく。
いつも彼の隣にいた少女は、いない。
「父さんと母さんの事、よろしく」
そう言って、血浸しになっていた、彼女の遺品となってしまった、あの金の髪留めを掬い上げる。
それを、その獲物を狩る爪に持ちながら、狗守鬼はコエンマの返事すら待たず、踵を返した。
「ま、待て!!狗守鬼、何処へ行く!!」
コエンマの声にも、彼の足は止まらない。
それでも、一度だけ。
一度だけ足を止め、振り返った、彼の顔は。
幻覚か、都合の良い見間違えか。
いつもの、”狗守鬼”の顔を、していた。
「・・・サヨナラ」
風が吹く。
哀しい哀しい、風が吹く。
血に染まった、彼女の衣服の元に1人、コエンマが呆然と立ち尽くす。
「・・・狗守鬼・・・」
ポツリ。
今し方消え去った”鬼”の名を、涙を零す様に呟く。
静かになったこの空間は、鬼の気配が消えたこの場所は。
昨日までの様に穏やかで。
空は、嫌味な程に蒼いのに。
「・・・お前は・・・雷禅に、よく似たな・・・」
自嘲を滲ませ、愛しい男の貌を思い描く。
その男の顔は、鬼になった狗守鬼の顔と、良く似ていた。
「・・・狗守鬼・・・」
もう、2度と逢う事はないであろう、”狗守鬼”であった鬼を想い。
鬼が捨ててしまった名前を、一度、小さく呼んだ。
END.
サヨナラシリーズ、ラストは狗守鬼。
しかし彼の場合、他の面子と違って、実際死んではいない。
『狗守鬼』と言う人格が死に、完全に鬼の化け物になってしまった。
と言う事。そしてそれと同時に花龍も死亡しているので、注意を入れました。
多分この後、狗守鬼は誰も来ない様な次元の狭間で、1人永い時間を生きるんだと。
いや、1人じゃないか。一応、花龍もいるから。(死んでるけど)
もしも両親やコエンマ達と会う事があっても、多分もう誰か認識出来ないんじゃないかと。
タイトルの『サヨナラ』は、狗守鬼の台詞から。
一応、皆違う言葉で、サヨナラと言わせたつもりです。
花龍は『さよなら』、つばきは『じゃあね』、小瑠璃は『さようなら』、そして狗守鬼の『サヨナラ』。
バイバイ。が無かったけど、それは志保利さん辺りかなぁ・・・(書いてないけど)