私の本当の名は誰も知らない。
いいや、父と、今は亡き母は知っていた。
けれど、他の誰も。
私の本当の名を、知らない。
『いつか、呼んで』
人は皆、自分を”コエンマ”と呼ぶ。
閻魔の娘。
何れはこの霊界を統治しなければならぬ身。
だから私は、次期統治者の意を篭め、そう呼ばれる。
私が私である必要は無いのだ。
私と言う存在は求められていない。
必要なのは、名。
統治者と言う名だけが必要。
それ故に、私の本当の名を知る者は、いない。
知る意味が無い。
教える意味も無い。
次期閻魔である以上、私は”コエンマ”なのだ。
「それではコエンマ様、私はこれで」
「ああ・・・ありがとう」
綺麗に纏められた書類を置いて、秘書は部屋を後にする。
だがどうにも仕事をする気になれず、渡された書類に目も通さず、重い腰を上げた。
最近、寝ていない。
「・・・・・・雨の、匂い」
窓から顔を出すと、ふと香る哀しい匂い。
人間界では、雨が降っているらしい。
少し気になり、そのまま窓から身を躍らせる。
人間界の雨の影響か、降り立った地の草は、少し湿っていた。
霊界と人間界を繋ぐ扉の前に立てば、先程よりも色濃く雨の気配を感じる。
別れと終焉を連想させる、どうにも物哀しい透明の匂い。
けれど、胸に痞える何かを洗い流してくれるようにも感じた。
それと同時に激しく痛んだ、体。
彼の妖気が残っている。
血色の。鬼の。酷く恐ろしい妖気。
もうあの器は捨ててしまったのに。分解して宙に帰したのに。
本体に染み込んだのだろう。彼の妖気が私の体を痛め付ける。
清浄な雨の気配に気が洗われた所為で、妖気の存在をやたらハッキリ感じた。
霊気で構成された体には痛い、それ。
嘗て魔界を掌握し、人間を喰らった恐ろしい鬼の妖気。
「・・・・雷禅・・・・」
無意識に、口から名が零れた。
化生。鬼。魔族。あの男。
本当に愛してくれているかもわからないあの男。
本当に愛しているかもわからないあの男。
いいや・・・愛されてはいけない。愛してはいけない。
あの男は魔族。
私は次期霊界統治者。
そんな感情を抱いてはいけない。
・・・彼が、本当に自分を愛しているかはわからないけれど。
彼には愛した人間がいる。
今でも男の心に、彼女は残っている。
その癖して、私を誘うのだ。
その度私は勘違いをしてしまいそうになる。
だから、必死に言い聞かせているのに。
自分は遊ばれているのだと。
彼女の代わりなのだと。
餌としての存在なのだと。
必死に、言い聞かせているのに。
それなのにアイツは、不敵な笑みを浮かべて言ったのだ。
『俺が惚れた女は・・・いつも、名を明かさないな・・・』
自身の妖気が、私の本体に染み入る程強く、私の器を抱き締めながら。
霊気で構成された人形の体が、軋む程強く抱き締めながら。
そう、言って来たのだ。
「・・・・っ」
その時移ったこの妖気は、再び私を苦しめた。
あまりの苦痛に、人間界への門へ凭れる。
あの男がいる魔界へは、この人間界を通さないと行く事が出来ない。
それ程に、霊界と魔界の間には・・・まだ、溝があるのだ。
その最も離れた世界に存在する彼に、何故こんな感情を抱かねばならないのか。
『アンタの名・・・・あるんだろう?』
雷禅の声が、耳元で響く。
背筋にゾクリとした何かが走った。
思わず、両肩を堪える様に抱き締める。
あの男は、その後も何度か同じ様に問うた。
私の名を問うた。
そんな物を聞いて何になる。
私の名を聞いて何になる。
何の意味も持たない名を聞いて、何になる。
大体、私の名を聞いておきながら、その眼は違う誰かを見ているのではないのか。
黒く美しい、毒の腹壺を持つ誰かを。
私の名ではなく、彼女の名を知りたいと、思ってはいないのか。
『・・・コエンマ。それが、私の名だ』
『それは、霊界統治者としての名だろう』
アイツは、私の名を呼ばない。
コエンマと。決して呼ばない。
何故か問うても答えなかった。
ただ私の本当の名を求めるばかりで。
霊界統治者ではない私の名を求めるばかりで。
そこまで考えて、思わず口を塞いだ。
”霊界統治者ではない私”。
彼が欲しているのは、私自身なのか。
私と言う、1つの女の存在。
その事実にはたと気付いて、唐突に困惑した。
違う。私は”コエンマ”なのだ。
私と言う存在は、必要無い。
霊界を統治すると言う責務を担う以上、私は私になってはいけない。
例えあの男が本当に私を求めていたとしても、私は私になれないのだ。
『気が向いたら、教えてくれ。・・・いつまで経っても、アンタを呼べない』
それなのにまだ響く。
あの男の、何処か寂しそうな声。
その声は、体に残る妖気と共に、また、私を酷く苦しめる。
「コエンマ様。・・・コエンマ様」
「え・・・・?」
呼ばれ、顔を上げる。
そこには秘書の姿。
どうやら、私が部屋にいなかった為、探しに来たらしい。
「ここにいらっしゃったのですか。お部屋に姿が無かった物で・・・」
「あ、ああ・・・悪い・・・少し、気分転換にな・・・」
「そうですか・・・・。・・・・あの、コエンマ様」
「ん?」
言葉を詰まらせる秘書に、首を傾げて先を促す。
けれど、大体用件はわかっていた。
「・・・・魔族雷禅から、伝えが」
「・・・・・・ああ」
「・・・コエンマ様、あの・・・」
「わかっている。・・・ただ今は少し・・・色々とあるだけだ」
「・・・・はい」
秘書から言玉を受け取り、ソレを握る。
冷たい感触がした。
秘書は何か言いたげにこちらを見ていたが、やがて一礼すると、この場を去る。
彼女だけでなく、他の者達も口を揃えて言う。
”貴女は何れ霊界を統治する存在”
”魔族との逢瀬は、もうお止め下さい”
次期霊界統治者が、魔族と関わりを持つ。
それは、許されない事なのだろう。
『・・・アンタの、名は?』
彼からの言玉を握り締めたまま、人間界の門に触れる。
雨の匂いは、まだ続いていた。
雷禅。
私はまだ、お前に名を教える事は出来ない。
私は、次期霊界の統治者。
私としての存在は許されない。
私の存在は必要無いのだ。
私の名も、必要無いのだ。
・・・けれど
その責務から解き放たれたのなら。
私がただ1人の女となれたのなら。
お前がその時を待っていてくれるのなら。
お前が私を本当に愛してくれるのなら。
私が私として存在出来る様になったら。
その時は
END.
久々の雷コ。
自分の存在を否定して生きるコエンマさん。
実は本当の名前とかあったら良いなぁとか思ったり。
あくまで自分を消して生きるコエンマさんを、雷禅さんは哀れに思うかも。
・・・それにしてもこの2人だと全然甘くなりません。興奮。