殿はその場から動かなかった。
動けなくも、なるだろう。
随分卑怯な手だと、自分でも良く分かっている。
だが、もう、自制が出来ぬ所まで来てしまったのだ。
『想華 廿』
傷ついただろう。
困惑しているだろう。
だが事実だ。
俺は今でも彼女の事を愛している。
誰にも渡したくない程に。
「あ・・・緋村さん、お帰りなさい」
道場の戸を開けると、巴がいた。
どうやら待っていたらしい。
・・・・俺ではなく、殿を。
その証拠に、彼女の顔は何処か不安そうだ。
俺と共に出掛けた殿がいないので、驚いたのだろう。
・・・腹が立つ。
「あの・・・は・・・」
「いや・・・・まだ、外にいるのでござろう」
「そうですか・・・また、帰る方法を探しているのかしら・・・」
巴の表情が曇る。
・・・そんな顔、見たくない。
「・・・きっとすぐ帰って来るだろう」
「・・・・・・・ええ」
俺の所為なのだが。
・・・こんな時さえ笑える俺に、嫌悪すら感じた。
2人並んで、縁側に座る。
時折道場の方から騒がしい音が聞こえるのは、薫殿と弥彦だろう。
巴はその度道場の方へ顔を向けるが、すぐに外へと意識を向ける。
「・・・気になるか」
「・・・・・・はい」
「・・・・殿なら、大丈夫だろう」
「・・・でも、また先日の様に、怪我をしていたら・・・」
巴の眉が悲しそうに下がった。
巴。そんな顔をしないでくれ。
「・・・大丈夫だ」
「・・・・・・・・・・」
巴はまだ、外を気にしている。
・・・・こっちを見てくれ。
「・・・巴」
「はい」
呼べば、彼女は静かにこちらを向く。
漆色の瞳に俺の姿が映り、ドキリとした。
「・・・・お前は本当に、殿の事が心配なんだな」
「・・・・・・はい」
躊躇い無く頷く彼女。
・・・殿が羨ましいと、素直に思う。
「・・・・巴」
「はい」
「・・・・もし、殿がこちらの世界に残ると言ったら、お前はどうする?」
「え?」
予想していなかったのか、巴は少し驚いた様子で眼を見開いた。
・・・・何を言っているんだ、俺は。
そんな事、ある筈が無いのに。
殿は・・・帰る方法をまず第一に探していると言うのに。
・・・だが、もしも・・・
どうしても帰れぬ状況になってしまったなら?
その時は・・・・
「・・・そうですね・・・私も、残ります」
「・・・・・そうか」
「はい。が帰らないと言うなら、私も帰りません」
「・・・・殿の言う事なら、何でも聞くと?」
「はい。・・・余りに、無理な事以外は」
巴が少し微笑んで言った。
苛立ちが胸を掻き回す。
「・・・無理な事?」
「許婚を破棄して欲しいと言われたら、私は拒みます」
「・・・・・・・・・・・」
ギリリと、奥歯を食い縛る。
・・・・彼女は、本当に殿の事を・・・・
・・・・・・・頭が、熱い。
「・・・巴」
「はい」
「・・・殿から聞いたのだが、幼い頃に許婚だと決められたそうだな」
「はい」
「・・・・嫌だと思った事は無いのか」
「え?」
何を聞いているんだ。
俺は何処まで卑屈な男なんだ。
・・・・だが、何処か望みたい。
「ありません」
巴の答えは、早かった。
「戸惑いはありました。
特に幼い頃は・・・許婚の意味さえ理解出来ていませんでした。
けれど・・・共に過ごす内に、彼に惹かれて・・・
気付けば、許婚としてなどではなく、彼1人として、意識をする様になりました」
「・・・・・・・・・・・・」
幸せそうな彼女。
その顔を見るのは、良い。
・・・が、その話はもう、聞きたくない。
「そうか・・・」
「はい」
「・・・・殿が、羨ましいな」
それは、憎い程に。
「あら、緋村さんにも、素敵な方がいらっしゃいますよ」
「・・・・・・・・そんな事は無い」
「緋村さんはとても良い人ですから」
「・・・勘違いだろう」
殿に卑怯な話をし。
嫉妬に心を染め。
彼女を俺の隣に留めておきたいと思っている俺が?
ただ、見苦しいだけだ。
「・・・・遅いですね・・・・」
「・・・・・ああ、そうだな」
「・・・・・・・・・・・・」
無言になる。
そのまま、彼女はまた外へと視線を向ける。
巴。
・・・俺の事を、映していてくれ。
それから暫く、無言のまま2人で座っていた。
時折聞こえる鳥の声も、良く澄んで聞こえる。
と、そこへ、何やら騒がしい声。
「ん?」
「・・・・・何でしょう、外が・・・・・」
「ああ・・・」
巴と揃って、その声に注意を傾ける。
『おい、何が起こったんだ!?』
『わかんねぇ、だが河原の方で、乱闘騒ぎがあったらしいぞ!!』
『若い兄ちゃんがぶっ倒れてるんだってよ、警官が出た!!』
瞬間、巴がバッと立ち上がる。
そして、一目散に外へと駆け出そうとした。
慌てて、彼女の腕を掴む。
突然邪魔をされた巴は、ビクリと振り返る。
「あ、あの・・・緋村さん・・・」
「巴、行くな」
「何故ですか。・・・お願いです、離して下さい」
「・・・・危険だ」
「わかっています」
巴が、クイと掴まれた腕を引く。
・・・行かせたくない。
「もしかしたら、殿ではないかも知れん」
「・・・でも・・・もし、もしもだったら・・・!!」
「あっ」
一瞬の隙を突いて、巴が腕を振り払う。
そしてそのまま、振り返りもせずに飛び出して行ってしまった。
「巴!!」
呼んでも、もう彼女の背すら見えなかった。
追いかけるべきなのだろう。
だが。
・・・・だが。
「・・・・巴・・・・」
足が動かない。
追わなければならないのに。
『・・・お願いです、離して下さい』
そう言った時の巴の、顔。
殿の身を案じる故の、不安と焦り。
そして、巴の行動を止めた・・・
俺への、怒り。
初めて、巴に怒りを向けられた。
いいや、昔、巴の許婚を殺した時。
きっと巴は、俺に対して憎しみと怒りを感じていただろう。
それでもその時は、その様な感情なぞ微塵も見せなかった
それなのに、殿の時では・・・・・・
彼女の背を止めようと伸ばした手が、ギチっと空気を掴む。
苛立ちが腹から指先まで、満ち渡る。
握った手に爪が食い込み、血が流れ出た。
NEXT
良い感じに事態が重い方向へと突き進んでおります。
緋村が嫌な男ですが、雨黙の緋村は元々人間味溢れてるので。
勿論性的な意味で嫌な意味で。
喧嘩をしていたのは誰なんでしょう?主人公でしょうかね。
でも今主人公は自己嫌悪と葛藤の真っ最中。
そんな状態で、巴さんと会ったら・・・・・・・・。