俺とアイツの間でも、触れてはならない琴糸が存在する。


それは、触れる事でアイツが拗ねたり、不貞腐れたり、激怒したりする訳で。


・・・いや、それくらいならまだ可愛い物だ。

それくらいならば、甘く愛を囁き、頭を一撫でした後にキスをしてやれば、すぐにその糸の綻びは戻る。


だが、一番触れてはならない、俺がどうしても、それだけは触れたくないと思う琴線があるのだ。


その一番のタブーと自分自身で決めている脆く張り詰めた一線に、珍しく。


それはそれは、本当に、1年に一度あるかないかの、稀な言動の誤りで、乱雑に糸を弾いてしまった。


俺が、絶対に触れたくなかった、アイツの、一番脆く、それでいて修復困難な、感情の琴糸。




”悲しみ”と言う、アイツから最も遠ざけたい、繊細な心の糸を。












アイツは嫉妬と言う感情にほとほと縁が無い。

例えば、俺が他の女の香水を纏って帰ったとしても、あの馬鹿はお構いなしだ。

俺自身。他の女へ興味を持っていないからか、それを知っているアイツは何でも無い様に笑う。


それに少々、不満を覚えない訳ではない。


逆に言えばそれ程信頼を置かれていると言う訳なのだが、それとこれとは別な訳で。

先日偶々知り合ったMGNの女社員について、少しばかり含みを持たせて話を聞かせてみた。

最初はいつもの様に、ただ他愛ない話として聞いていたアイツだが。



俺の一言に、サッと顔色を変えた。



「中々良い女だったな。仕事も出来るし、お前よりは役に立つ」



その一言。

それを聞いた途端、克穂の顔がピシリと音を立てそうな勢いで凍った。


その表情の変化を見て、俺の心に広がった感情と言えば、後悔。


同時に、今更になって思い出した、克穂が嫉妬をしないもう1つの理由。



自分が、何より劣っているのだと言う、自虐的に根付いた思考。



自分は誰より劣っている。

だから、俺が他の女を見るのだ。

悪いのは、能力の無い、執着される要素の無い自分なのだと。

自分には、執着される価値がなかったのだと。


一度スイッチが入ると、何処までも自分を傷つけ卑下する、克穂の性格。

その主なスイッチは、アイツのコンプレックスを、俺が心無い言葉で弾く事。

アイツのコンプレックスと言えば、自らの要領の悪さ。何をやっても役に立てないと言う、負い目。


それを忘れていた訳ではなかったのに。

自らの失言に、思わず苦々しげに舌を打った。


哀しげに震え、視線をそっと逸らしながら相槌を打つ克穂を、堪らず抱き締める。

密着した体から小さな震えが伝わり、胸に走った痛みに眉を顰めた。


悪かった。深い意味など無い。

そう、心臓を締め付ける痛みを隠さずに伝えても、アイツは儚げな笑みを浮かべて、大丈夫とだけ言う。

何度キスをしてやっても、頬を撫ぜてやっても、アイツは目尻に涙を溜めながら笑うだけ。


時間を戻せるなら今すぐ戻してやるのに。

自身の発言を今更ながらに呪いながら、何度も愛情を伝える。


それでも結局、克穂の震えはそのまま。


悲しげに俯いた泣き顔は消える事無く、その日は気まずいままに終わる事になった。












「・・・ふぅ」


翌日の帰路。

急いで辿る、まだ明るさを保った空の下。

久々に見る茜に染まった帰り道に、少々の違和感を覚える。


それでも、こんな状況で仕事に身が入る訳も無く。


強引に仕事を切り上げ、今朝も悲しそうな顔をしていたアイツの元へと急いだ。


相当傷ついていたのだろう。

今朝は随分と早く、弁当の準備をしていた。

多分、眠れなかったのだろうが。

せめて。と、朝出がけに何度かキスをしてみても、アイツは曖昧に笑うだけだった。


今にも泣き出しそうな笑顔がチラついて、仕事など誰が出来ようか。


いつもより仕事量は少ない筈なのに、ドッと身体を襲う疲れに抗い、足を進める。

ようやく辿り着いたアパートの階段を急ぎ足で上り、住み慣れた自室のドアを開いた。




「あ、おかえり。早いね、今日は」

克穂の声が直ぐに迎える。

夕飯を作っている最中らしく、嗅ぎ慣れた良い匂いが、鼻をふわりと掠めた。

「あ・・・ご、ごめん、まだ、夕飯作ってる途中で・・・」

俺がこんな時間に帰るとは思わなかったのだろう。
作り掛けの夕飯を前に、克穂の表情が暗く翳った。

「いいや、気にするな。俺が早く帰っただけだろう」
「で、でも・・・お風呂も沸いてないし・・・全然、何も、出来て無くて・・・」

何も出来ていない。
いつもなら少し困った様に、それでも明るい調子で言うその言葉。
それが今はどうだ。
震える声色で、まるで大罪でも犯したかの様に、脅えている。

何をそこまでと思うが、コイツをここまで追い詰めさせたのは、他ならぬ自分の失言。

胸に苦い何かが広がり、それは口内をも侵食する。
思わず眉を顰めた俺を、また違った意味に取ったのか、克穂が両手で口元を押さえ、俯いた。

「ご、ごめん・・・ごめん・・・なさい」
「・・・謝るな。何も、悪い事なんてしていないだろう?」

今にも泣き出しそうな克穂の頭を、優しく撫でてやる。

そこでふと、克穂の指に巻かれた絆創膏が目に入った。


左手の人差し指、中指に、一枚ずつ。


そのどちらにも、ガーゼの部分に血が滲んでいて、どうやら深く切ったらしいと推測出来た。


咄嗟にその手を取ると、克穂の身体がビクリと跳ねる。

そして、ついに堪え切れなくなったのか、ポロポロと真珠の様な涙を零しながら、嗚咽を上げ始めた。


「ごめ・・・なさ・・・ごめ、なさい・・・」
「だから。何も謝る事なんてない。お前は何も悪くないだろう?」


悪いのは俺だと言ってやっても、克穂は否定する様に首を振る。

喉を鳴らして震え泣きじゃくる克穂に、どうしようもない後悔と愛しさが押し寄せ、思考回路が鈍る。

そのまま衝動に任せ、コンロの火を止めてから、克穂の腕を乱暴に引いた。


弾かれた様に顔を上げる克穂に構わず、ベッドまで引き摺り、シーツの上に雑に転がす。


頬を涙に濡らしたまま、混乱した様に見上げてくるコイツが、愛しくて仕方ない。

起き上がる隙を与えずに、スーツを着込んだまま覆い被さってやれば、克穂は素直に俺の顔を見つめる。

それでも、すぐに悲しさが勝ったのか、熱い涙を溢れさせ、再びその空色の眼を覆った。


「・・・ごめん、克哉・・・ごめんなさい・・・何も、出来て無くて・・・」
「この時間なら当たり前だ。お前だってわかってるだろう」
「でも・・・私、これくらいしか・・・出来ないのに・・・」

その言葉に、胸が悲鳴を上げる。
少し妬かせてみようと思った、昨日の自分が腹立たしい。
それでコイツを傷つけては、何の意味も無いと言うのに。

「何、下らない事を言っている。十分だ」
「仕事、で、は・・・もう、頑張れないから・・・せめて、家の事だけでも、役に立ちたいのに・・・」
「十分だと言っている。・・・何度言わせる気だ、お前」

俺の低い声に、克穂の眼に恐怖の色が浮かぶ。
ああ、全く。帰って来てから、コイツの笑顔を見ていない。
一番見たいのが笑顔だと言うのに、俺の発言に対する反応は、マイナス感情の物ばかりだ。

そろそろコチラが辛いと、濡れた目蓋にキスを落とし、涙を拭う。
それでも次から次へと溢れてくるそれは、すぐに頬を、目尻を濡らし、きりがない。

「そ、れに・・・こんな、簡単な事で・・・怪我なんか、しちゃう、し・・・」
「・・・ああ、それは確かに頂けないな」

もう一度左手を取る。
そうして、二本の指に巻かれた真新しい絆創膏を丁寧にとってやると、覗くのは赤い傷。
まだ血が滲み、白い肉を見せる痛々しいそれ。


その傷に奥歯をギリと噛み締めてから、そっと、なるべく痛みを与えない様に唇を寄せた。


「か・・・つや・・・?」

血を吸い、舌を柔らかく押し付けて、指を口内に含む。
こんな事で傷が治る訳でもないとわかっていながら、治癒を施す様に、何度も。

しつこく繰り返してやる内に涙は止まったのか、うっとりとコチラを見ている克穂。

それを視界に入れてから、もう一度傷口を舌でなぞり、ようやく白い指を開放してやる。

「あ、あの・・・」
「良いか。お前はもう、自分で自分を傷つけるな」
「え?・・・え、と、う、うん・・・」

俺の突然の言葉に、克穂は戸惑いながら頷く。

大方、不注意だったが、仕方の無い事だったのに。と、不服めいた感情を抱いている事だろう。


だが俺が言っているのは、この傷の事だけではない。


「昨日の俺の言葉。あれは確かに、俺が悪かった。
 ・・・だが、俺の言葉に傷ついた後、何故自分で自分を、更に傷付ける。
 俺がああ言ったのは自分の所為だと、勝手に思い込んで、俺がつけた傷を抉っていただろう」

俺が睨みを効かせて言えば、克穂は眼を泳がせてから視線を外す。
それに構わず、血の味が残る口で、柔らかな頬にキスを落とした。

「頼むから、それだけはやめてくれ。お前が、全く見当違いに自分を痛めつけるのは、一番見たくない」

俺の所為ならば、尚更だと告げると、克穂はおずおずと俺へ視線を戻す。
濡れる蒼い眼。大きな瞳に、俺の顔が映り込み、それはすぐに涙で滲み歪んだ。

「・・・こ、わ、かった・・・克哉に、役に立たないって・・・捨てられちゃうのが・・・」
「捨てる訳があるか。そんな事で捨てるなら、もうとっくの疾うに捨てている」
「・・・そ、う、だよね・・・」

呆れ果てた俺の声色に、ようやく克穂の顔に微笑みが戻る。

全く。やっと、コイツの笑った顔を見れた。

「何も出来ない?役に立たない?・・・下らない。お前は、ただ俺の傍にいれば良いんだよ」
「・・・うん」
「・・・傍にいて、笑ってろ。それだけで、十分過ぎる程だ」


お前の他に、それが出来る奴はいない。

お前の他に、その役をやらせる気も無い。

お前の他に、誰かを傍に置くなど、考えられない。


そう耳元で囁けば、クスクスと嬉しそうな笑いが、鼓膜を心地好く刺激した。



「・・・お前だけだ。俺に、幸福を与えられるのは」



それでも何も出来ないなんて戯言を口にするのか。


何処までも自信を持てない、何処までも自虐的な、可愛いお前。





千切ってしまった脆く繊細な琴糸を、何度も口付けて、解れを懸命に繕って。


それと同時に、すぐ傍にある、もう1つの柔らかい糸に、指先で愛しむ様に触れる。


他のどんな糸よりも、俺達を強く繋ぎ止める、一本の、綻びようの無い、しなやかで強い琴糸。




”愛しい”と言う、弛む事を知らない、唯一の糸。




その琴糸の感触に良く似た髪を梳きながら、すっかり涙を笑顔に変えた克穂に。


糸の解れも、心の傷も修復出来るように、深いキスを落としてやった。




























END.


題名、もうちょっとなんとかならないものか。(自分で自分を殴りつける)
でも他に考えない、潔い自分が割りと好きです。

克哉さんの失言と克穂さんの自虐思考。
滅多に無い克哉さんの失敗。自分でも内心狼狽中かと。
んで、克穂さんのご機嫌取りに相当尽力。
『お前には勝てない』とはまた違い、克穂さんが本気で落ち込んだので。
自分に自信が無い克穂さんにとって、『お前だけ』とか、『お前にしか』とか。
そう言った類の言葉は結構効果ありだと思われます。