朝目覚めると、そこはホテルの一室。
まだ少々薄暗い日差しの差し込む、見晴らしの良い部屋。
漂う情事の残り香。
彼女の姿は・・・無かった。
Rental-14-
ダルさの残る身体を軋むベッドから起こし、ゆっくりと状況を整理し始める。
アレだけ責め苛んだ彼女が、もう既にいない事には、些か驚いていた。
てっきり、朝まで泥の様に眠っているかとも思ったが。
しかしそれは、今この場に、彼女が。彼女の衣類や鞄ごと消え去っている事が、答えとして表れている。
現状を飲み込むと、何やら無性に舌を打ちたくなった。
苦い、ここ最近、私を常に不快にさせる、棘の様な感情が、彼女の不在を認めて込み上げて来た。
その胸を刺す様な感情が何なのか。
わからない程、私も青くない。
自覚するのが遅すぎたと言われればそれまでかも知れないこの感情。
あれ程の暴挙を働いておいて何をと言われれば、そこまでかも知れないこの感情。
それを特定の感情と決め付け認めてしまうには、まだ私には、余裕も度胸も無かった。
佐伯克穂。
最初は、ただただ、腹立たしかった。
いいや、今思えば、腹立たしいのは彼女の兄であった筈なのだが。
それでも、そんな男に寄り添い、気弱な風に脅え、私の機嫌を伺う様に見つめる視線が。
ただ、どうしようもなく、私の神経を刺激した。
その身体を使って、目標の数字を据え置きのままにと縋る彼女。
何て程度の低い女なのかと、憎しみにも似た感情すら覚えた。
愛らしい顔をして、清楚な気配を纏って。
その癖して。随分と男に慣れた彼女。
ああ、腹立たしい。苛立ちが全てを支配する。
・・・そのままだったら、良かった。
切っ掛けが何だったかは、覚えていない。
恐らく最初は、肌を曲りなりにも合わせた事で、多少の情でも移ったのだろう。
会議の最中、ふとした時の彼女の仕草を、顔を、何となしに見つめた事が、原因だったか。
窶れ果てた様な顔をしていた。
眼の下に隈でもあるのだろうが、それは流石に化粧で隠しているのが見て取れた。
一瞬の動きに、痛みが走るのか、躊躇いが見られる。
動作の1つ1つがゆっくりで、それでも、常に顔には、静かな微笑が浮かんでいた。
それこそ、まるで、儚い少女の様な。
泡沫の様な頼り無い微笑が、目蓋に焼き付いて離れなくなった。
そうして、その静かな微笑が、あの男に、彼女の兄に触れ合った時だけ、花の様に綻ぶのも。
その時感じた、酷く不快な苦味を、今なら冷静に理解出来る。
彼女を自分の支配に置き、乱れさせるその時でさえ。
ふと気を緩めれば脳裏を掠める、儚く哀しげな微笑と、あの男だけに見せる幸せそうな微笑。
それを振り払う様に手酷く彼女を詰り苛めば、現実に響くのは悲痛な声と冷たい涙。
それは間違いなく、自分の所為であるのに。
彼女の微笑みが今此処に存在しない事に、理解が追いつかない程の苛立ちを覚えた。
まるで、手に入らない宝石を必死に強請る、子供の様な焦燥感。
正しく触れれば綺麗に輝く筈なのに、それを焦りの余り手荒に扱い、果ては壊してしまう様な愚劣さ。
けれども、自分の今まで築き上げてきたプライドは、体の低い、プライドの欠片も無いと認識した彼女を。
彼女自身だけでなく、自分が彼女に抱き始めている感情すら否定し、馬鹿馬鹿しい虚勢を張って来た。
このザマで、彼女を、彼女の兄を、どうこう言えた義理だろうか。
そんな、行き場の無い鉛の様な感情を引き摺ったまま、決定的に彼女の存在が変わったのが、あの時。
経過報告会のあった、先週。
プレゼンの打ち合わせで、彼女の資料に眼を通した時。
細かく丁寧に作られ、商品についても良く勉強し、適確な数字を調べ上げてあるあの資料。
勿論、所々の表現や言い回し等には、あの男の関与が色濃く残っていたが、それでも。
自らが調べ上げた数値からの鋭い考察。聞く者を納得させるだけの根拠を持つ言葉。
随分と良く出来上がった資料に、心中では、少々彼女の事を見直していた。
あれだけ消極的で、常に自らの意見を他人の意見と同化させてしまう様な彼女が見せた、それ。
その資料へ、真っ当な評価の1つもせず彼女を突き放した私を、彼女は強い眼で見つめていた。
『・・・私に、やらせて下さい』
強い意志を孕んだ声と瞳は、到底普段の彼女とは掛け離れていた。
芯の通った彼女の声を聞き、蒼の眼を見て、不意に、理解した。
彼女は、プライドが無い訳ではない。
こんなにも、確固たる情熱を持っており、それを貫き通す強さが、そこにはあった。
普段の、気弱な、儚い気配に隠されている、仕事への誇り。
責務の全うを自負する、”仕事”へ臨んでいる彼女の姿に、恥じ入った。
彼女をプライドの無い女だと卑下した自分の方が、どうしようもなく程度の低い人間だと。
上面に惑わされ、彼女を虐げ罵った自分に、恥を感じた。
勿論、身体を使ってまで縋った彼女に、感じたプライドを見出せるかと言われれば、答えは喉に引っ掛かる。
だが。それだけ仕事に誇りを持つ彼女が、そうまでして全てを守り通したかったのだろう。
大切な物を。あの課を。
それがどれだけの決意か。
私とて、仕事に情熱を傾ける人間の1人。
想像には、そう難しい事ではない。
優しく、儚い、気弱な彼女。
プライドを持って仕事に向かい合い、要領の悪いながらも、それを必死にこなす彼女。
自らの身を、誇りを投げ打ってでも、仲間を守り通すと決意した、彼女。
佐伯克穂と言う人間の、様々な表情を目の当たりにし、酷く困惑した。
どれが本当の彼女なのか。
いいや、全てが本当の彼女なのだろう。
微笑む彼女も、泣き喚く彼女も、緊張に震えながらも仕事に臨む彼女も。
ならば、他にはどんな表情があるのか。
彼女の隠されている素顔を、心の内を、もっと、知りたいと。
ただ、純粋に、そう思った。
けれど、結局全ては空回りのまま。
私はいつもの通り、そんな心情を陵辱の中に隠し、彼女は苦痛に悲鳴を上げる。
それだけ。いつもと、同じ事の繰り返し。
それでももう。自分自身を隠し通すのは、少々辛いと感じ始めていた。
目の前で涙を零す彼女の目尻を、拭ってやりたくなる。
あの時私に見せた強く輝く瞳は、今は絶望に暗く淀んでいて。
髪を梳こうと指を伸ばせば、裏腹に手触りの良い髪を強く掴んでしまう。
もどかしい。苛立たしい。
どうにかして、彼女の心の内に触れたいのに、私は彼女の心を手酷く傷付けていく。
彼女と初めて身体を繋げれば、彼女の口から零れるのは、あの男の名前。
今この時くらい、私を見れば良い。
それなのに彼女は、今ここにはいないあの男を求める。
その悲鳴に似た縋る声に、あの男にだけ見せる、花の様な微笑が、また目蓋に浮かんだ。
ああ、もう、隠す事など出来ない。見て見ぬ振りは出来ないのだと、ようやく、諦めがついた。
自分の、この感情を。
気を失った彼女の汚れた身体を、丁寧に拭ってやる間。
その間だけは、自分でも驚く程、優しく触れてやる事が出来た。
汗に濡れた髪を梳き。
涙に濡れた頬を撫ぜ。
汚れた体にキスを落とす。
肩口から胸元、腹部から下肢へ。
啄ばむ様な口付けを落としてから、痕を残す様に吸い上げる。
彼女は、一切の反応を返して来ないのに。
手首に残る痣を撫でてやり、その後で頭を2・3度撫でてやる。
出来る事なら、彼女が起きている間にこうしてやりたいものだと、今更ながらに思う。
けれども、それは無理な話。
きっと彼女は私を許さないだろう。
いいや、許したとしても、きっと私には心の内を開かない。
そうしてまた、儚げな微笑を浮かべて、私の元から離れていくのだろう。
何事も無かったかの様に。内に秘めた強さで。あの男と共に。
そうさせるくらいならば、いっそ、このまま。
この歪な鎖で、彼女の身も心も縛り付けて、離れないように。
自分の考えに、思わず苦笑いが浮かぶ。
7つも下の人間に、これ程までに執着を覚えている自分に。
そしてその執着が、明らかに常識を欠いた方向へ向かっている事に。
しかし、それでも。
彼女を手放すと言う選択肢を得るには、もう時は遅過ぎた。
その選択を手にするには、彼女の表情を知り過ぎた。
きっと自分は、彼女を解放する事は出来ないだろう。
それがいずれ、暗い深淵へと向かう事になる選択だとしても。
そこまで、まだ少々鈍る思考を巡らせた後、ふぅと息を吐く。
今日は月曜だ。
8課とのミーティングもある。仕事だって、詰まっている。
早く頭を切り替えて、会社へ行かなくては。
そう無理に考え直し、シャワールームへと向かう。
・・・ミーティングには、彼女は来るだろうか。
自分の知らぬ間に消えた彼女を思い、シャワールームのノブに触れた指先が、一瞬、惑った。
ミーティングには、彼女の姿は無かった。
兄の佐伯曰く、体調が優れぬそうだ。
その言葉を聞き、酷く苦い感情が沸き起こり、ぐっと奥歯を噛む。
ミーティング自体は、何の滞りも無くスムーズにいった。
報告を見る限りでは、MGNの記録に残りそうな程、好数字を叩き出している。
私が耳にした所では、彼女の良い噂も、多々入っていた。
それなのに。
彼女の不在が、その理由が、私の心の暗雲の様に渦巻き、圧し掛かっていた。
キクチの面々は、それぞれの予定を話し合いながら、会議室を後にして行く。
彼女はいつも、一番最後に続き、あの男の隣にそっと寄り添いながら、此処を出て行くのだ。
・・・その彼女の姿が、今は見えない。
それだけで、胸に居座る鉛は鈍痛を伴い、私の感情を掻き乱す。
こんな事ではならないと、ミーティングの資料を纏め、出来る限り仕事へと意識を向ける。
そこへ、腹立たしい程涼やかな声が、私の所へ届いた。
「御堂部長」
「・・・なんだ」
佐伯、克哉。
彼女の・・・兄。
「すみません、少々、お話が」
彼女と同じ髪色。
彼女と同じ肌色。
彼女と同じ眼色。
それでも気配は対照的な、口元を厭らしく吊り上げる、この男。
ああ、見ているだけで癪に障ると、苛立ちを隠さぬまま鋭い声を投げ付けた。
「・・・何の用だ。大した用件ではないのなら・・・」
「ええ、俺にとっては、別に大した用件じゃないんですがね」
私の言葉を遮る様に、佐伯が愉悦に満ちた声で言う。
それに些かの嫌悪を覚えながら、仕方なくこの男の言葉を待った。
「克穂の・・・妹の事で、少々」
その言葉に、資料を纏めていた手が止まる。
眼を見開いて佐伯を見れば、ニヤニヤと、まるで愉しんでいるかの様な笑みを浮かべた奴が。
・・・ああ、本当に全く似ていない兄妹だ。
・・・彼女は、こんなに悪辣で冷たい微笑みなぞ、浮かべはしない。
また、彼女の儚い微笑を脳裏に思い描き、それを軽く頭を振って消し去る。
今は、この男の言葉を聞く事が優先だ。
彼女の話。
この男に、彼女との契約がバレたのだろうか。
・・・だから何だと言うのだ。
生憎コチラも、そうそう簡単に彼女を手放すつもりはない。
この男が何を言おうとしているのか、何の切り札を持っているのか、予想もつかないが。
それは・・・今から、わかる事だ。
持っていた資料を机へ戻し、腕を組んで佐伯に向き直る。
佐伯は、ほぅ。と、感心した様な、それでも何処か嘲りを含んだ声を零し、唇を歪めてコチラを見ているだけ。
「・・・・・・話を、聞こうか」
私がそう答えると、佐伯の眼に、暗く冷たい光が、一瞬宿った気がした。
NEXT.
今回より御堂さん視点。そして心の移り変わりを無理矢理詰め込みました。(暴挙)
1話〜13話までの御堂さんの視点を一気に書いたので物凄い駆け足状態。
そしてこれからも後半戦は基本駆け足です。スピード違反!
ようやく御堂さんが克穂さんへの執着を認め、これからも手離したくないと思った矢先・・・
早速牽制に出られました。克哉さんったら!(いけない人!)