カチ。カチ。
控え目な筈の秒針の音は、酷く耳障りに私の鼓膜を震わせる。
目の前の男は、眉を跳ねさせた私を一瞥すると、喉を鳴らす様に笑って見せた。
・・・ああ、不愉快だ。
Rental-15-
「・・・それで、彼女の話と言うのは」
あまりに不快な沈黙を続ける佐伯に痺れを切らし、苛立ち任せに口を開いたのは私からだった。
促すその言葉にすら愉快だと言いたげに肩を揺らす、底冷えする様な怜悧さを孕んだ蒼い眼。
彼女と同じ瞳を持つ癖に、宿るそれはまるで、暗闇。
何だか恐ろしい何かを見た気がして、情けなくも、スッと視線を佐伯から外す。
その私の一連の動作を無言で眺めてから、奴はようやく歪めた唇を開いた。
「・・・そうですね、まずは・・・謝罪を」
「・・・謝罪、だと?」
「ええ、アイツの事で」
まるで予想だにしなかった佐伯の言葉に、思わず鸚鵡の様に返す。
・・・謝罪?
しかも、この男からの謝罪ではなく、彼女の事についての謝罪だと言う。
・・・彼女が私に謝罪せねばならない事など、無い。
・・・寧ろそれは、私の方である筈だ。
「この大事な時期に、休ませてしまってすみません」
「・・・ああ、なるほど」
サラリと、声のトーンすら変えぬままに佐伯が告げる。
その言葉で、ようやくの合点がいった。
・・・合点がいったと言っても、数ある疑問符の内、1つが噛み合わさったに過ぎないが。
「・・・確かに、この大事な時に休まれるとはな。
・・・子供ではないのだから、自己管理は怠るなと君からも・・・」
「あぁ・・・体調不良って言いましてもね、そう言った類じゃないんですよ」
彼女の体調不良、それは十中八九、私の所為であろう。
気を緩めれば罪悪感に押し潰されそうな心を虚勢で固め、温度の篭らない言葉を佐伯に告げる。
その自分の言葉に心を刻まれようと、今私は、仕事の場にいる。
私情を挟む場ではない。
まして、この男に。
しかし、佐伯はさも可笑しそうに笑った後、無遠慮に私の言葉を遮った。
その礼儀の無さと不可解な言葉に、眉間に存分に皺を寄せてから低い声で問い返す。
「・・・どう言う事だ?」
「いえ、実を言いますとね。・・・怪我が、少々酷くて」
「・・・怪我・・・!?」
不穏な響きを宿す単語に、思わず声を荒げて反応してしまう。
怪我?彼女が?昨日の内に?
・・・昨日、ホテルでは、特に酷い怪我などさせなかった筈。
手首の擦り傷も、赤くなってはいたものの、取り立てて騒ぐ程の怪我ではない。
・・・なら、私が眠っていた間。
彼女が、私の隣から消え去った後だろうか。
深夜の帰り道、何か、彼女の身にあったのだろうか。
ゾクリとした、恐怖にも似た嫌な予感が、汗となり背を伝う。
それでも、佐伯はそんな私の思考すらお見通しの様で、見下げた様な笑いを1つ寄越すと、わざとらしく言って来た。
「キスマークを全部消すには、随分と苦労しましたよ」
他の男の痕を目の当たりにするのは、存外胸が悪くなる物ですね。
・・・そう、内容とは裏腹に愉しそうな響きを残すその言葉を、佐伯は何の躊躇いすらなく口にした。
・・・・・・何だ。一体。
何から反応して良いか、良くわからない。
私らしくもなく、思考回路は見事に停止していた。
言葉の真意も、彼女の怪我の訳も、わからない。
それでも、ただ漠然と、1つの事柄は、自分でも妙な程に冷静に認識した。
この男は、知っている。
私が、彼女とどう言った関係を結んでいるか。
そして、彼女の身体に残る痕が、私の物だと言う事を知った上で、敢えて私に告げたのだ。
それを認めても、まず先に腑に落ちない疑問が、違和感が沸き起こる。
この男は何故、こうまで冷静にいられる?
私と彼女の関係を知っても、こうも冷徹に、それこそ事態を愉しむ様にしていられるのか。
得体の知れない不気味さを目の前の男から感じ、一歩距離を取りたくなるのを懸命に堪える。
そして・・・何故、この男は、彼女の身体に残る痕を、知っている?
その先の答えを知りたい筈なのに、本能が警鐘を打ち鳴らす。
知ってはならないと。
しかし佐伯は、もうこの話を続けるつもりはないらしく、軽く肩を竦めて次へ移る気配を見せた。
状況整理が追いつかない中、これ以上の詮索はしない方が良いと、奴の言葉を待つ。
だが、次に佐伯の口から紡がれた言葉に、頭を何かで殴られた様な衝撃を覚えた。
「アイツの身体は、アンタをちゃんと満足させられましたか?」
・・・この男は、何なんだ。
何が言いたい。何を知っている。コイツは、一体何をしたんだ。
私の口内は既に嫌な緊張感に渇き切り、無理矢理に潤そうと唾を飲み込む。
それは、一切の無音が支配するこの空間に、嫌味な程良く響いた。
「・・・な、ん・・・」
「まぁ、アレだけご執心なんだ。さぞ、お気に召した事だろうがな」
鼻で笑いながら、佐伯は私を冷たい眼で射抜く。
無機質なレンズの奥の瞳は、圧倒的に支配者のそれだった。
「・・・何を、言っている・・・」
「さぁ?アンタが一番良くおわかりの筈だと思うが・・・」
「・・・貴様・・・一体・・・」
佐伯への疑問は湧き出るばかりだが、声にならない。
言葉に、ならない。
この男が事実を知っていたと言う事にも、勿論驚いている。
だが、それを、こうまで愉しそうに言ってのける奴が、些か恐ろしかった。
何か、不穏な切り札を、内に秘めている様で。
「・・・どういう・・・事だ・・・」
「何がでしょう?俺はただ、アイツの身体の使い心地をお尋ねしたまでですが」
「だからっ!それがっ・・・」
「別に俺は、アンタがアイツに接待を要求した事について、とやかく言うつもりはない」
その点は安心すると良い。と、佐伯が唇を吊り上げる。
美しく整った顔が悪辣な笑みを浮かべると、いっそ恐怖を覚える程に美麗だ。
「・・・っ」
「でも、万が一使い心地が悪かったなら、こちらについても謝罪しなくてはなりませんね」
「・・・何がだ。貴様は、何が言いたい・・・」
それ以上は聞きたくない。
いいや、せめて、脳内の混乱が一通り収まってからにしてくれ。
今、この男の口から、今の言葉の真意を聞いたなら、私はどうしたら良いのかが、わからない。
しかし佐伯は、やはりコチラを見透かした様な笑みを浮かべて。
その氷を思わせる冷気を帯びた眼を、まるで優しげに、わざとらしく眇めてから。
愉しそうに歪んだままだった唇を、私に向けて開いた。
「アンタがお気に召さなかったなら、それは、完全に俺の調教不足だからな」
頭を鈍器で殴られた様な衝撃が、再び襲う。
意味を咀嚼せぬままに、その言葉だけを耳に入れ、私は眼を見開た。
目の前に立つ佐伯の表情は、何一つ変わらない。
それでも。
私の視界に映った佐伯の姿は、やたらとブレて見えた。
・・・調教不足?
この男が、彼女に?
・・・兄であるこの男が、妹である彼女に?
私の常識を一瞬で塗り替えるこの言葉の意味に気付いた時には、無意識に身体が震えた。
そんな馬鹿な。
そんな事があって良い筈が無い。
そんな事は・・・。
更に混乱をきたし、半ばパニックを起こしかけている私を見て、佐伯が肩を揺らす。
笑いに潜む悪意を隠しもせずに、その綺麗な顔で、彼女と同じ色の眼で私を見ながら。
「舌の動かし方はどうでした?アレも、最初は下手糞で、役に立ちそうもなかったんですがね。
最近ではすっかり慣れた様で。自分から食いついて来る事もある。
・・・ああ、あと、身体の方は良い具合だったでしょう?
何せ、10年以上掛けて躾けて来たんだ。少しくらいは芸を覚えている筈ですしね」
何を言っているのか、理解したくない。
してはならない。
この男の、常識を欠いた言葉の数々を、必死に受け流そうとした。
けれど、それは、残酷にも私の脳内に染み入り、意味を無理矢理理解させる。
「しつ、け・・・10年・・・?・・・佐伯、貴様・・・一体・・・」
「御堂さん。アンタの眼には、俺達2人はさぞ、仲睦まじい兄妹に見えただろう?」
佐伯に唐突に問われ、解せぬままに頷く。
確かに、彼等は私の眼に、非常に兄妹仲の良い関係に見えた。
彼女は兄である佐伯に寄り添い、兄の暴挙を静かにセーブする。
一方の佐伯は、彼女の小さいミスもすかさず、適確にフォローし、傍で見守っていて。
それこそ、他者の付け入る隙なぞ存在しないとでも言わんばかりの、2人の空間。
心を許した彼女の微笑み。
それを見ている際、自分の心に湧き出した苦味を、ようやく、受け入れられたばかりだと言うのに。
「確かに仲は良いさ。何せ、心だけじゃなく、身体でも繋がってるんだからな」
「っ・・・貴様、自分が何を言っているのか、わかってるのか!?」
「ああ、十分」
あまりの言葉に激昂を抑えられず、会議室に余韻を残す程の大声を、乾いた喉から搾り出した。
それでも佐伯は、涼しげに、愉しげに、笑うだけ。
「どうかしている!佐伯、君達は実の兄妹の筈だ!!それなのに・・・!!」
「そうだな。・・・だが、御堂さん」
佐伯が、静かで、暗い声色をその歪めた口から零した。
思わず続きの言葉を飲み込み、滲む冷や汗と嫌な予感を全身で感じながら、奴の言葉を待った。
「アイツは俺の妹であると同時に、”物”でもある。
・・・自分の物をどう扱おうと、俺の勝手でしょう?」
例え壊そうが。狂わせようが。
そう続いた佐伯の胸倉を、無意識に。本当に無意識に、握り締めて白くなった手で掴み上げた。
興奮のあまり、息が荒くなる。
眦が怒りの余り裂けそうになるのが、自分でも良くわかった。
それでも、襟を掴まれた佐伯は、その美しい顔を歪めもせず、ただ冷淡な笑みを浮かべている。
「何をそんなに怒る必要がある?アンタにとってアイツは、ただの使えない性処理玩具。
仕事の出来ない様に、さぞ苛立っただろう?
数字を取り下げろと縋りに来て、さぞ不愉快な存在だったろう?
・・・なのに何故、アンタはアイツに執着する?」
そう問いながらも、佐伯には、とっくの疾うに、お見通しなのだろう。
私の、彼女に対する恋情を嘲笑うかの様な笑みに、目の前が怒りで染まる。
「・・・貴様は・・・彼女に何をしたんだ・・・っ」
「どれについての事だ?
怪我の事か?アンタの接待についての事か?それとも。
・・・俺とアイツの関係の始まりについてか?」
「っ・・・」
佐伯の胸倉を掴んだままギリリと歯を食い縛る私を、呆れ混じりの溜め息で一蹴する。
そうして、私の手を素早い動きで払うと、そのままポケットから一枚のメモを取り出した。
「・・・知りたいだろう?」
「な、にをだ」
「全て。俺が今話した事、全ての真実」
「・・・」
知りたい。
ここまで、この男の口から聞いてしまったのだ。
本能の警告なぞ、とっくに遠ざかっている。
この男が今話した事。
到底信じ難い。もし事実だとするなら、あまりに気の違った話。
その真相を、知りたかった。
何の反応も返さない私から肯定を読み取ったのか、佐伯が手にしたメモを私に差し出す。
それを受け取り、何気無く眼を通してから、ぞっと背筋が凍った。
あの時。
彼女が私に、数字を据え置きのままでと縋って来た時に渡した・・・メモ。
私が書いたホテル名と時間は乱雑な線で掻き消され、変わりに新たな文字が下に書かれていた。
「ああ、すみません。手持ちの紙が無かった物で、使わせて貰いました」
「・・・っ」
やはりこの男は知っている。
私が彼女にして来た、全てを。
しかしそれは、彼女も共謀しているのではないかと言う考えを、どうして呼び起こさなかった。
この男は、妹である彼女を。
あんなに儚く、柔らかい心を持った彼女を、物として扱っている。
恐らく彼女も、この男を愉しませる為に、踊らされていたのだろう。
・・・私と、一緒に。
「・・・・・・このメモは」
「知りたいなら、今夜、そこに来い」
そこに書かれていたのは、私が以前、佐伯と共に入った店。
そして、時間。
夜の8時。
それだけなのに、メモを持つ手に緊張が走り、無様にも一瞬、指先が震えた。
「アンタが素直にアイツに溺れていれば、こんな面倒な事をせずに済んだのに。
・・・俺は、自分の物を他人に奪られるのが大嫌いなんですよ、御堂さん?」
嘲笑う佐伯の顔を、苛立ち紛れにメモから上げた眼で睨みつけた瞬間。
彼女の泣き顔が、この男の顔に被って見えた。
NEXT.
本当は”芸も覚えている〜”の下りで、”それも出来なかったなら、メス犬以下だ”
と言う台詞が入る筈でした。あんまりにあんまりなのでやめました。(正解!)
そして御堂さんのメモを使ったのは、克哉さんなりの嫌味。そんな性格の貴方が大好き!
メモを貰った瞬間、御堂さんはあの時の克穂さんの気持ちを少し体験されたかと。
何よりも書きたかったのは、克哉さんの胸倉を掴む御堂さんでしたが。(そこ!)