通い慣れた店の前。
人々が行き交うネオンの中。
私の前に、いつものスーツを纏って現れた彼女。
彼女の瞳は。
光を失っていた。
Rental-16-
「・・・・・・・・」
「・・・・・・・・」
奥の、静かなテーブル席に通され、向かい合わせに座って早5分。
お互い、挨拶以外の言葉を交わさぬままに、無言で顔を突き合わせていた。
せめてと頼んだワインも、お互い一口飲み込んだまま。
「・・・?」
ふと、彼女がワイングラスを手に持とうと腕を動かす。
すると、ビクリと痙攣する様に一度止まり、その虚ろな表情を一瞬苦痛に歪ませた。
スーツの袖から覗く彼女の手首に、痛々しい包帯が巻かれている。
瞬間、脳裏に佐伯の言葉が蘇った。
『いえ、実を言いますとね。・・・怪我が、少々酷くて』
怪我。
それを認めた途端、咄嗟に彼女の腕を掴んでしまった。
「っ!」
「っ・・・す、すまない」
瞬間、彼女の表情が更に歪む。
驚きよりも痛みが勝ったらしく、喉から小さな悲鳴が零れ落ちた。
慌てて謝罪を口にしながら、彼女の細い腕を解放する。
・・・謝罪するべきは、他にあると言うのに。
自分の行動と言動に些か自己嫌悪を覚えながら、座り直す。
彼女の方も、いえ。とだけ小さく呟いてから、静かに席に座り直した。
彼女の着ているスーツは、以前の物と変わらない筈。
それなのに、それはやたらとブカブカしている様に見えた。
・・・いいや、彼女が痩せてしまったのだ。
・・・私への接待を、続けていく内に。
思わず苦い思いで眉を顰めると、彼女は虚ろな眼のまま、私を見る。
それでも、そこに私の姿は映らず、ただただ暗い深淵を覗かせるのみ。
それは、彼女の兄である佐伯と、良く似ていた。
「っ・・・」
それが恐ろしく、少し、眼を逸らす。
けれど、彼女はそのまま私を見つめ、そうして、ようやく、その小さな口を開いた。
良く見れば、口紅に隠れたその唇にも、噛んだ様な傷がいくつもあった。
「・・・克哉から、全部、聞いたんですね」
「・・・・・・」
予想通りと言えば予想通りな、彼女の言葉。
それでも、その声はやけに静かで、まるで彼女が彼女でなくなってしまった様な印象を受ける。
それに、全身が震える程の恐怖を覚えた。
「・・・あ、あ」
「・・・ごめんなさい」
「・・・何故、君が謝る。君が謝る必要は・・・」
「ごめんなさい・・・嫌な事、聞かせて・・・ごめんなさい」
彼女が俯く。
その細い体は、小刻みに震えていた。
・・・出来る事なら、その震えが治まるまで、抱き締めてやりたいのに。
事態をここまで悪化させ、彼女を追い詰めさせたのは・・・私自身だ。
「・・・御堂さん、何か、聞きたい事、あるんじゃないですか?」
「・・・君は・・・良いのか」
「はい。・・・もう、何も隠す事、ありませんから」
そう言って、微笑む。
・・・その微笑みは、今まで見て来たどんな表情よりも、痛々しかった。
「・・・佐伯の、君の兄の言っていた事は・・・事実なのか?」
「私と克哉が、関係を持っていた事ですか?」
「・・・ああ」
「・・・・・・はい。もう、ずっと前から」
彼女が答える。
それは、いくら佐伯から聞かされていたとは言え、衝撃的だった。
実の兄妹で。
佐伯の言葉からすると、10年以上前から。
肉体的な関係を続けていると言う、彼等。
明らかに異常だ。
気が狂っていると言っても良いかも知れない。
・・・けれど。
「・・・君は、それを望んでいるのか?」
「え・・・」
「佐伯の口ぶりからすると、彼は・・・とても、君を・・・」
大切に扱っている様には見えない。
何せ、彼女を”物”だと言い捨てたのだ。
そんな男との、兄との関係を、彼女は本当に望んでいるのだろうか。
「・・・はい」
「・・・克穂君、君は・・・」
「良いんです。・・・私が、望んでる事なんです」
それ以上の否定は聞かないとでも言いたげな声に、私は押し黙るしかない。
そうか。とだけ呟いて、ワイングラスを摘む。
彼女は、あ・・・。と、寂しげに声を零してから、私から視線を外した。
「あの、御堂さん・・・」
「何だ?」
「・・・変な事、言うかも知れませんけど・・・」
言い辛そうに、彼女が口篭る。
それを催促する事はせずに、ただ、黙って彼女の言葉を待った。
一度、彼女は、口内を潤す様にワインを含む。
「・・・変な話・・・嬉しかったんです」
彼女の声は、非常に穏やかだった。
まるで、何かを諦めてしまったかの様に。
「・・・嬉しい?」
言葉の意味がわからず、私は知らず怪訝そうな声色を零していた。
彼女はその声に困った様な微笑を浮かべながら、答えを寄越して来る。
いつもの、寂しげな、儚げな、心を閉ざした微笑で。
「・・・今まで誰にも言えなかった心の重荷を、誰かに・・・御堂さんに知って貰えて・・・
・・・・ちょっと、心が楽になったって、言うか・・・・」
「・・・・・・そう、か」
「・・・はい」
どれ程の苦痛だっただろうか。
どれ程の恐怖だっただろうか。
自分達の異常な関係を。
兄と交わると言う禁忌を犯した罪を背負うのは。
それを誰に告げる事も出来ず。
物と扱われながらも、兄から離れる事も出来ず。
周囲にそれを知られるのではと、脅えながら過ごす日々は。
少し、穏やかに笑う彼女を見て、胸が軋む。
相変わらず、彼女の素顔がわからない。
その頼り無い微笑みの内に、様々な表情を、隠し過ぎている。
「・・・でも、コレを知ってくれたのが、御堂さんで、本当に良かった」
彼女の言葉に、首を傾げる。
何故。と問おうとした私の言葉は、彼女の哀しい言葉に掻き消された。
「きっと私は、コレ以上御堂さんに嫌われ様が無いから・・・
・・・コレ以上、貴方に軽蔑され様が無いから・・・知られた所で、何も怖くない」
貴方の中での私は、さぞ最低な人間でしょうから。
そう、彼女の自嘲気味な声を受け、胸に鋭い痛みが走った。
彼女の哀しげな微笑が辛い。
彼女の全てを諦めた言葉が、痛い。
違うと言いたかった。
もう、君をそんな眼で見ていないと。
今では、私の中で、どうしようもなく、存在が大きくなっているのだと。
そう言いたくても、彼女の微笑と言葉に、声は出て来ない。
しかし、こんな事ではならないのだ。
私は、彼女へ向ける感情に気付きながらも、今まで、何1つ素直に告げて来なかった。
その結果が、コレではないか。
此処まで来てしまったのだ。
今、告げなければ。
彼女に根付いた、感情を、誤解を、どうにか溶かしたい。
でなければきっと、2度と彼女との関係は、元に戻らなくなる。
確信に近い予感が、踏ん切りの悪い私を突き動かす。
既に味のわからないワインで乾いた口内を潤し、努めていつもの調子を保ち、錆び付いた唇を開いた。
「・・・克穂君」
「はい・・・」
「・・・私は君に、伝えたい事がある」
「・・・はい」
何を言われるのか、自嘲気味に言い放った後でも恐怖は拭えないのか、彼女の身体が強張る。
そうして、空色の瞳が私を見つめるのを待って、まるで纏まらない言葉を、考え付くまま零していった。
「・・・私は君を、認めている」
彼女の表情が、キョトン。と、それこそ少女の様に愛らしく。
暗く、光を失っていた瞳を丸くしながら、私をじっと見ていた。
突然の言葉で、意味が理解出来なかったのだろう。要領を得ないとばかりに首を傾げる。
「あ、の・・・?」
「・・・・・・確かに最初、私の君への印象は、良い物ではなかった。
・・・いや、君の印象と言うより、君の兄の不快感が強かったのだろうが」
「は、はい」
そこまで言って、持っていたグラスをテーブルに置く。
ゆらゆらと揺れる紅い液体が、彼女の濡れた唇を思わせた。
「・・・しかし、それはいつしか変わっていった。君と、歪んだ形だとしても、繋がりを持って。
君の意志の強さ、それを貫き通す、覚悟。
仲間を思い、それを守る事となれば、自身の犠牲すらも厭わない・・・繊細で、柔らかい、君の心。
その内の強さを見せない、儚さを映した微笑にすら、私は・・・知らず、魅かれていた」
克穂君が呆然と私を見つめる。
恐らく、半分は意味を理解していないだろう。
・・・いいや、理解したくとも、出来ないのかも知れない。
それだけの事を、私はして来たのだ。
けれど、今伝えなければ、確実に後悔してしまう。
その確固たる予感が、確信が、私の口を、酒と共に手伝い、滑らかにさせた。
「・・・仕事の面でも、君は私に、新しい姿を見せてくれた」
「・・・仕事、ですか?」
「ああ。・・・あの時、経過報告会で君の用意した資料だ。・・・君が作った物だろう?」
「え・・・あ・・・はい。・・・でも、克哉にも、ここの表現が甘いとか、例えが在り来たりだとかアドバイスを・・・」
「だが、あれのほとんどは、君が考え、調べ、纏め上げ、それを丁寧に作り上げた物だろう。
・・・私の眼から見ても、あの資料は、とても良く出来ていた。・・・商品を理解し、学んでいる姿勢が現れていた」
「あ・・・あ、ありがとう御座います・・・」
私の言葉に、彼女は頬を染めて俯く。
先程までの様子は何処へやら、素直な反応を見せる彼女に、暖かい感情を抑えきれない。
しかしその微笑みは、次の私の言葉に、凍りつく。
「・・・そんな君の様々な姿を見ている内に・・・私は君に魅かれ・・・
君に働いて来た愚行を・・・・・・後悔する様になった」
彼女の眼が、見開かれる。
言葉を詰まらせた様なその表情に一瞬躊躇ったが、それでも、言葉を途切る事はしない。
今の内に続けなければ、きっと、もう言う事が出来ない。
「・・・・しかし、今更その関係を崩す事も出来ない。
・・・この繋がりがなければ、君と私の間にある脆い線は、切れて、2度と元に戻らなくなる。
・・・君との関係を断ち切られるのを、正直、私は恐怖した」
「・・・・御堂、さん」
克穂君が、信じられないとでも言いたげに眼を丸くし、私を見つめる。
私を映す空色の瞳は、酷く美しかった。
「それと同時に、一向に私を見ようともしない君に、激しく苛立った。
当然と言えば当然だ。私は君を傷付ける事しかしていないのだから。
・・・だが、それでも、君が私をその視界に、心の内に入れない事に、苛立っていた」
私の名を呼ばず、ただ”克哉”と叫ぶ彼女が、憎らしくて・・・手に入れたくて。
「そんな折だ。佐伯が・・・君の兄が、私にあの話を持ち出したのは」
克穂君の肩が揺れる。
それを見て取ってから、一気に言葉を紡ぎ、些か疲労した口を、ワインで慰める。
克穂君は何も言わない。
ただ、呆然と私を見ている。
彼女の瞳には、驚愕と、それと同時に、悲しみが色濃く表れていた。
それはどの類なのか。
正確にはわからなかったが、それは何故か、まるで、私を気遣う様に揺れていて。
「・・・克穂君、私は君に、謝罪をし」
「良いんです」
ようやく、彼女に謝罪が出来る。
そう思い口を開いたのに、それを遮ったのは、彼女自身。
その声はハッキリとしていて。
私の慙愧の念を滲ませた謝罪を、いとも簡単に掻き消した。
「謝らないで下さい、御堂さん。・・・良いんです」
「・・・何故だ、良い訳がない」
「良いんです。・・・良いんです、御堂さん・・・」
泣きそうに震える声。
それでも乾いた笑いを含んだ声色で。
その癖して、その小さく細い肩は、頼り無さげに震えている。
この手で、肩を抱いてやる事が許されるのなら。
「・・・悪いのは、御堂さんだけじゃない・・・」
「・・・・・・何を言っている。君を縛りつけ、陵辱し、傷付けて来たのは・・・」
「確かに、辛かった、痛かった、怖かった。貴方を憎んだ事だって、あります・・・」
克穂君が、必死な様子で言葉を紡ぐ。
今は、彼女の言いたい事に耳を傾けるのが先か・・・。
そう、仕方なく口を閉じ、彼女の声を、ただ聞く。
「・・・でも、貴方が、私を認めて下さった様に・・・私も、貴方に、違う感情を抱いていました」
「・・・何だと?」
「ごめんなさい。・・・でも、仕事に妥協を許さずに、責任を背負って全てを完璧にこなして。
自分にも他人にも厳しく生きている貴方に、尊敬の念を抱いていました」
彼女の口から零れた予想外の言葉に、今度は私が眼を丸くする。
暴挙の限りを尽くした私を。
彼女のプライドを土足で踏み躙り、虐げて来た私を。
そんな風に見てくれているなんて、思わなかった。
こそばゆいような何かが胸に広がり、熱を持ちそうになる頬を隠す様に、ワイングラスを傾ける。
「・・・御堂さん、貴方が私に謝る必要なんて、ありません」
「・・・・・・克穂君、しかし」
「御堂さん。・・・私、ようやく気付いたんです」
「・・・何にだ?」
また、彼女の声に自嘲が滲む。
それに嫌な予感を覚え、手にしたワイングラスをテーブルに戻す。
彼女は、哀しい微笑みで、私に向けて小さな口を開いた。
「・・・御堂さん、貴方も、被害者なんですよ」
いいえ。本当は、初めからわかってた。
そう、彼女は言う。
言葉を無くし、ただ彼女の言葉の意味を測りかねる私に、克穂君は続ける。
「だって、この事は・・・元々、克哉が望んでいた事だから」
彼女の言葉の意味を、何と無しに理解した。
・・・ああ、そうだ。
彼女も、自分も、結局は、佐伯を楽しませる為に、踊らされていたに過ぎないのだと。
「克哉は、最初から全部知ってました。
私が貴方に呼び出されたのも、何を要求されているのかも。
・・・それを全部知った上で、それを愉しんで、状況を更に悪化させる様に仕向けて」
そうだ。
あの男は、全てを知りながら。
そうして、私ですら自覚していなかった感情を、既に見抜いていたのだろう。
私を挑発し、彼女を見せ付ける様に傍に置き、私がその苛立ちを彼女にぶつけるのを待っていた。
「最初は貴方を恨んで、憎んで、克哉に縋ってました。
・・・彼は、私を助けてなんてくれないのに。守ってなんてくれないのに。
・・・・・・でも今日、克哉から話を聞いて・・・あぁ、全部、克哉の望み通りに動いたんだな・・・って」
私が彼女に執着し、手に収め様とする事を、あの男は不快だと言った。
しかし、それでも、あの男には、確固たる自信があったのだろう。
彼女が私の手に入らないと言う、自信が。
そうしてそれを私に突き付け、私が酷く混乱しショックを受ける様を見て、さぞかし愉快だったろう。
全てはコレが見たかった為。
退屈な日常を、他者を、自分の片割れを使ってまで揺さぶり、あくまで愉しげに傍観する。
そうして、恐らくは気に食わなかったであろう私の表情を粉々に壊すのを、楽しみにしていたのだろう。
それと同時に・・・
彼女が。いつも自分に付き従い、寄り添い、絶対の信頼を預けてくる彼女が。
蹂躙され、脅え、窶れ、取り乱す様子を、あの男は見たかったに違いない。
そうでなくとも、私に徹底的なダメージを与える為に。
代わり映えの無い日常に、残酷な彩を加える為に。
そして、自身が一時、愉しみたいが為だけに。
彼女を本当に”物”の様に利用したのは、事実だ。
彼女の言う、『貴方も被害者』と言う言葉を、ようやくしっかりと理解し、落ち着いて飲み込む。
「・・・克穂君、君は・・・どうなんだ」
「・・・え?」
「そこまで知って、君はどう思う」
「・・・・・・」
信頼し、心を預けている兄に、その様な仕打ちを受けて。
道具の様に使われ、男の相手を促す様な兄を。
「・・・・・・克哉が、それを望むなら、良いんです」
「っ」
彼女の答えは、私の心を酷く抉った。
「君はっ・・・」
「良いんです。私が辛いのは、貴方まで巻き込んで、傷付けてしまった事だけ。
・・・私は・・・私、は・・・
・・・・・・私は克哉の、物、ですから・・・・・・」
彼女がそう呟いた途端、耐え切れず勢い良く席を立ち、彼女の手を掴む。
ハッと驚いた様子の彼女を尻目に、釣りが札で返って来る程の代価をテーブルに残し、引き摺る様に店を後にした。
店から飛び出し、タクシーを拾う為に道を駆ける最中。
こんな風に手を握ったのは初めてだと、何処かぼんやり思考した。
NEXT.
克穂さんの怪我は、次の話で発見され、”コレは一体何だ!アイツは君に何をした!”と
御堂さんに激しく激昂して執着心を見せ付けて頂く為の
伏線にしようかなぁ・・・と思っていたのですが。
うっかり忘れていまして、そのくだりは存在しません。(私の頭の中にのみ!)
この時点で、克穂さんは克哉さんから全て聞います。
なのであまり御堂さんを憎んではいません。
ただ同情。自分と同じ様に利用され傷つけられた御堂さんへの、同情だけ。
だから絶対に御堂さんには謝罪させない。