御堂さんとの蟠りもとけた。

新たな関係からやり直せる。

克哉もきっと、十分に退屈しのぎ出来ただろう。

素直に事を話せば、わかってくれるかも知れない。

プロトファイバーの件だって、好調なままラストスパート。


それなのに。


雨はまだ、止まない。







Rental-18-







「ホラ」
「・・・・・・え?」


家で克哉に渡されたのは、予想外の物だった。


「・・・かつ、や?」
「さっさと書け。詳しい理由なんかは適当に課長に話せば良い」
「・・・・・・そん、な・・・なんで・・・?」


私には、暫くは無縁の物だと思っていた、その紙。

一枚の紙なのに、手に受け取ったそれはとても重く。冷たく。


「い、嫌・・・だよ・・・なんで・・・私、会社、辞めたくない・・・」




『退職願』と書かれた封筒と用紙は、私の指先の震えを受け、カサカサと音を立てた。












『約束だっただろう?この会社に入った時から』


克哉の言葉が、頭に響く。

いつものスーツを着ながら、いつもより随分と早い時間に、家を出た。


まだこんな時頃。

歩く人の姿は、ほとんど無い。


『お前が働く条件・・・それは・・・』


鞄が重い。

いつもと同じ荷物の筈なのに、酷く重い。

今この場で、捨てて行ってしまいたい程だ。


『俺が”辞めろ”と言った時、すぐに辞める事』


たかが紙一枚で、こんなにも重くなるものか。

・・・いいや、この紙は、私にとって、重過ぎる。


嫌だ。辞めたくない。まだ働いていたい。あの会社で、あの課で。

だって、ここまでやって来たのに。

ようやく皆、まとまって、一緒に今回のプロジェクトを完遂しようとしているのに。

・・・皆と、克哉と一緒に仕事出来るのが、楽しかったのに。


・・・でも、克哉との、約束。


克哉は元々、私が働く事に否定的だった。

家にいれば良いと言う克哉に、無理に。強引に。

渋る克哉に頼み倒して、条件を付けて了承して貰った。



1つは、克哉と同じ会社に入る事。

そしてもう1つは・・・克哉が”辞めろ”と言ったら、すぐに退社する事だった。



でも、まさか、たった3年で、この日が来るなんて。

どうして。なんで。克哉、どうして?

・・・いいや、薄々、勘付いている。


・・・・・・克哉は、私と御堂さんが、新たに関係を始めると言う事に、気付いていたんだろう。


すぐに話して、克哉に認めて貰おうと思っていた矢先のコレ。

しかしそれは、克哉なりの答えでもある。



「・・・認めて・・・欲しかったな・・・」



ヒールを鳴らしながら歩くこの道。

あと何度、こうして通る事が出来るのだろう。



私の視界が滲むと同時に、空模様は、また、怪しくなり始めた。






相変わらず早くに来ていた課長に、退職願を提出した。

勿論最初は何度も引き止められて、どうしても残って欲しいと、縋られてしまった。

出来れば私も頷きたかったけれど、克哉は、私に辞めろと言っている。

・・・克哉が言うなら、私は。


私が首を縦に振らないので、課長も暫くしたら、酷く悲しげな様子で諦めてくれた。

それはもう、今にも泣いてしまいそうな、顔で。

それを見た私も、思わず、その場に崩れて大泣きしそうになってしまった。


退職日は、せめてと、プロトファイバーの販促期間終了まではと、頼まれて。

私も出来る限り会社で働きたかったので、すぐにその条件に頷いた。


課長が、『本当に辛くて、寂しい』と小さな声で零したのに、私は、少し、泣いてしまった。



まだ早い時間。

課にも、ほとんど人はいない。


・・・あと、もう1人。

私が退職する事を、告げなくてはならない人がいる。


課長に断って部署を出て、携帯を取り出す。

そして、昨日知ったばかりの番号を呼び出し、数瞬躊躇ってから、コールした。



・・・本当は、こんな形で、この番号を呼び出したくなかった。

・・・・・・また、謝らなくちゃ。



数コール後、唐突にそれが途切れ、向こうから声が聞こえる。

それに、胸が詰まる思いがした。



『もしもし?』



・・・ごめんなさい。



「おはよう御座います、佐伯です。・・・あの、突然で失礼なんですが・・・

 ・・・・・・今から、お時間、頂けませんか」



・・・ごめんなさい、御堂さん。









忙しい筈の御堂さんは、私の突然の呼び出しに、訝しげながらも応じてくれた。

私の声に、何か引っ掛かる物を覚えたのだろう。

すぐに行くと、慌てた様子で答えてくれた。



私が待つのは、MGNの前。

今にも空は泣き出しそうなのに、傘は持たなかった。



「・・・御堂さん」
「すまない、待たせた。部下が来てしまって・・・」
「いいえ、突然のお願いを聞いて下さって・・・ありがとう御座います」

少し息を乱している御堂さんに頭を下げると、彼は眉を顰めて私を見る。
・・・ああ、言い辛い。言いたくない。

「・・・克穂君、どうした。何があった?」
「・・・・・・御堂さん」
「・・・何だ」

震える声で御堂さんを呼ぶと、彼は痛ましげに聞いてくれる。
ごめんなさい。貴方がそんな顔をしないで。私の所為で。

「・・・何も、言わないで下さい」
「・・・克穂君?」
「・・・・・・ごめんなさい、私、貴方と仕事が出来て、嬉しかったです」
「っ、克穂君、何を・・・!」

御堂さんの荒げた、困惑した声に、私は首を左右に振る。

すると御堂さんはハッとした様に口を閉じ、私の言葉に耳を傾けてくれた。


「・・・ごめんなさい、御堂さん・・・私・・・会社、辞める事になったんです。
 ・・・・・・このプロジェクトが、終わり次第・・・・・・」


御堂さんの眼が見開かれる。

そこに現れたのは、驚愕。

それに次いで、怒り。


きっと彼には、事情がわかる筈。

だからこそ、何も言わないで貰いたかった。


「・・・ごめんなさい・・・」
「・・・・・・あの男だな」
「・・・・・・」


御堂さんは、確信を持った声でそう言う。

私は言葉を返さず、ただ、無言を持ってそれに答えた。

・・・つまりは、肯定。


それを受けた御堂さんの表情が険しくなる。

怒りと憎悪を見せた彼の表情は、とても恐ろしい。

でも、彼がそんな顔をする時は・・・

・・・その怒りと同じくらい、傷ついているのだ。


「何故だ!!あの男は、また君を・・・」
「違うんです、御堂さん・・・違うんです・・・」
「・・・何が違う・・・」
「・・・約束なんです。前からの・・・克哉と、私の・・・」
「・・・・・・約束?」
「克哉が辞めろと言ったら、すぐに辞めるって言う・・・約束です」


私が答えると、御堂さんは強い力で私の両肩を掴んで来た。

指が食い込んで、痛い。

克哉につけて貰った痕に食い込んで、痛い。

それでも、それは御堂さんの怒りなのだと、悲しみなのだと、堪えて受け入れた。


「そんな約束・・・君が守る必要は無い・・・!」
「・・・・・・でも」
「もし約束を破棄する事で君が危害を加えられると言うなら・・・
 ・・・私が、君を守る」


必ずだ。と、御堂さんは、強い意志を孕んだ瞳で私に告げる。

それを見て、言葉を聞いて、思わず、朝から我慢していた涙が、零れ落ちた。

肩を掴んでいた御堂さんの手が滑り落ち、私の力なく垂れ下がっていた手を握り締める。


「っ・・・わた、し、も・・・辞めたく、無い、です・・・でも、克哉、が・・・」
「何故・・・君はあの男の言いなりになる。そんな必要は無い筈だ。
 君は彼の人形ではない。まして、所有物などでは、決して無い。
 自分の意志で全てを決めて、何も悪い事は無いだろう」
「・・・ダメ、です。私、は・・・私は、克哉の・・・」



克哉の物だと続けようとした言葉は、冷ややかな声に掻き消された。







「そろそろ戻る時間だぞ、克穂」







冷ややかな、それでいて、愉しそうな、声。

・・・大好きな、克哉の声。



「あ・・・」



声のした方を、反射的に見遣る。

そこには、相変わらず悪辣な笑みを浮かべた、克哉の姿。

御堂さんの手に力が篭るのがわかった。


・・・でも。


「克哉・・・」
「っ、待て、行くな!」


私が克哉の元へ行こうとすると、御堂さんは握っていた手を引っ張り、私の身体を戻した。

克哉は、おや。とだけ呟いてから、わざとらしく両肩を竦める。


「御堂さん。そろそろうちの部署でミーティングが始まるんですよ。
 今日はコイツの挨拶もありますしね。早めに行かないと遅刻してしまう」
「貴様っ・・・何を考えている・・・彼女を苦しめて何が楽しい!!」
「何を仰っているのか、サッパリ。・・・さて、克穂。もう時間だ、さっさと来い」


克哉が私に向けて手を差し出す。

御堂さんは私の手を強く掴んでいる。


克哉は笑って私を見ている。

御堂さんは行くなと、私を強い瞳で見ている。


私は。

私は。


・・・私は・・・






「御堂さん」






笑おうとしたのに、涙は止まってくれなかった。






「ありがとう御座います。・・・ごめんなさい」






御堂さんの眼が見開かれる。

待てと、私を止める言葉が、開かれた口から零れた。






その御堂さんの叫びを聞いたのは。






私が丁度、克哉の手を取った、その時だった。























NEXT.


御堂さああーーーん!!(悲痛な叫び)
克穂さんのミスチョイスっぷりに撃沈の御堂さん。
でも克哉さんが圧倒的勝者なので、仕方ない。
克穂さんは克哉さんしか見えてないので、仕方ない。
実力のある克哉さんがキクチに入社したのは、上記の理由から。
克穂さんが入れる会社。自分の眼の届く範囲に置く為の苦肉の策。
そしてとっとと辞めさせる為に、克穂さんが苦手な営業を選択。さすが!