克哉が咥えていた煙草を地面に落とし、靴底で幾度かそれを踏み躙る。

相変わらず人を食った様な笑みを浮かべている口元から、紫煙が薄く吐き出された。

レンズ越しに細められる切れ長の眼。

ネオンを受けて薄く光る、自分と同じ色素の薄い髪。


いつもと変わらない克哉の姿に、私は立ち尽くしたまま、涙を零した。







Rental-4-







「か・・・つや・・・」


何故克哉が此処にいるのか。
理由は良くわからないけれど、それでも良い。
兎に角克哉が今目の前にいると言う事が、嬉しかった。

それでもまだ足が動かず、子供の様に、直立のままボロボロと泣きじゃくる。

止め処なく溢れ出る涙を拭おうと両手で眼を覆う。
すると、それと同時に克哉の足音が私の方へと歩み寄って来た。

克哉の姿を、顔を見たいと、慌てて眼から拭っていた手を外す。
瞬間。一呼吸の間も置かず、克哉の両腕に抱き寄せられた。


馴染んだ体温、腕の力強さ、フレグランスの甘い香りに、今し方拭ったばかりの涙が、また溢れた。


「っ・・・かつ、や・・・」
「どうした?」


殊勝に優しい声色で、克哉は返してくれる。
そんな声を出されてしまっては、私はもう嗚咽も隠さず泣きじゃくるしか出来ない。
どうして此処に来てくれたのか、とか。
どうして此処がわかったのか、とか。
聞きたい事はいくらもあるけれど、それでも、今は克哉の存在を感じられる事だけを求めていた。

そんな私の様子を見て、克哉は何かを汲み取ったのか、少し口元を私の耳に近づけた。


「・・・どうして俺が此処にいたか、気になるか?」


克哉が笑いを含んだ声で問う。
その意地の悪さを滲ませた問い掛けに、私は涙に濡れた顔を上げて、それに頷いた。

すると克哉は自身のポケットから、何やら小さいメモを取り出す。



そのメモには、見覚えがあった。



「・・・あ・・・そ、れ・・・」
「お前が御堂から渡されたメモだ」

奴も丁寧だなと、克哉が笑う。
数瞬思考が停止してしまったが、慌てて私も自分の右ポケットを探った。


・・・ない。

御堂さんからのメモが、ない。


・・・と言う事は、克哉が持っているのは・・・

「・・・ど・・・して・・・?」
「昼にお前を資料室に連れ込んだ時、拝借した」
「なっ・・・」

資料室で強く抱き締められた時だろうか。
あの時は御堂さんからの要求に対する恐怖と、克哉へ縋る事しか頭になかった。
でも確かに、抱き締めてくれた時の克哉の腕は、私の身体を強く回って・・・

・・・・その時、だろうか。

「・・・・・・・・」

思わず黙ってしまった私に、克哉がニヤリと笑う。
・・・克哉は知っていたんだ。
私が御堂さんに、ホテルに呼び出されていた事を。


・・・でも、止めてはくれなかった。

守ろうとは、してくれなかった。


・・・・その事実を今更気付いても、仕方ない。

克哉は昔から、そう言う人だ。


言葉を発しない私に焦れたのか、克哉はすっと私の前髪を指で梳く。

その心地好い感覚に眼を伏せると、克哉の嘲る様な声が私の耳を突いた。


「・・・髪に精液がついているぞ」
「!!?」


バッと克哉の腕の中で、自身の両手を動かす。
慌てて克哉に梳かれていた前髪を触るも、特に濡れている感触は無かった。


前髪を押さえたまま固まると、克哉が堪えられないとでも言う様に喉で笑う。


「・・・冗談だ」
「・・・・っっ!!」


あんまりな冗談に、私の眼はこれ以上ない程見開かれた。

でも、もう克哉に何か言う気も起きず、ついに、声を上げて泣いてしまった。


「ふっ・・・うっ・・・う、ぇっ・・・っ」
「あぁ・・・悪かった悪かった」

ポンポンと抱き締めたまま背中を叩かれるも、それがかえって私の感情を揺さぶる。

みっともなく泣きじゃくったまま、克哉の胸を軽く拳で叩き返した。

「元はと、言えばっ・・・克哉、のっ・・・克哉の・・・っ」
「わかったわかった」


いくら人通りが少なくなったとは言え、此処はオフィス街。
仕事終わりのサラリーマンは、ボチボチと通行している。

そしてそんな中、スーツの男女がホテルの前で抱き合っているのだ。
しかも女の方は大泣き状態で。
注目を集めない筈がない。


ジロジロと集まる好奇の視線に苛立ちを覚えたのか、克哉の舌が1つ、短く打たれる。


そしてそのまま私の身体をもう1度強く抱き寄せ、強引に足を進めた。


「ふ、ぅっ・・・ひっ・・ぅ・・・っ」
「帰るぞ」


今更動く気も起きず、ただ克哉に引き摺られる様にして歩く。



冷たい筈の夜風は、克哉の身体に阻まれ、私を切り裂く事は無かった。










家に帰った後、真っ先にシャワーを浴びた。

お湯に涙を混じらせながら、顔を、皮膚が削げ落ちるんじゃないかと危惧する程に強く擦る。

何度も何度も洗顔ソープで洗い、泡を落とし、また洗う。


それを何度も繰り返した後は、ひたすら口を濯いだ。

歯ブラシで歯を力任せに磨き、口の感覚が無くなるまで中を洗った。


暫く浴室に篭り汚れを落とそうと必死になっていたが、どうしても感触は消えない。


御堂さんに見られている感覚。

皮膚を触られている感触。

咥えさせられた性器の感触。


それがおぞましくて、熱いシャワーを頭から被っている筈なのに、全身に鳥肌が立つ。

震える程の寒気を覚え、私は堪らずシャワーを止め、何かから逃げる様に浴室を後にした。



「随分長い事入ってたな」

俺もまだなんだが、と、克哉は相変わらずからかうような笑みを口元に浮かべて、ベッドに背を預け座っていた。
テレビがついているが、どうせ、見てなんかいないんだろう。
いつも私が見ている音楽番組。
今は、何の興味もそそられず、寧ろ下らないトークで盛り上がるその内容に、憎しみすら覚えた。

髪から水滴を滴らせ、パジャマを纏い立ち尽くす私に、克哉は呆れた一瞥をくれる。
そしてリモコンでテレビの電源を落とすと、顎で私を呼んだ。

「・・・・・・・」

それに逆らう気も起きず、寧ろ克哉に縋りたくて仕方の無かった私は、素直に彼の傍へ寄る。

すると克哉の手が私の腕を掴み、ゆっくり胸元へ身体を引き寄せられた。


スーツを脱いだ克哉の身体は、皮膚のぬくもりをより濃密に知らせて来る。

寒気を覚えていた私に、それはあまりに優しくて、甘過ぎた。


一頻り涙は零したと思っていたのに、また、新たに熱いそれが零れ落ちる。


目蓋はもう、すっかり腫れて熱を孕んでいると言うのに。

今度は静かに泣き始めた私の濡れた髪を、克哉の大きな手が緩く、何度も撫ぜる。

そしてその動作と同じくらい優しい声で、残酷な事を聞くのだ。



「どうだった、御堂には可愛がって貰ったか?」



息をぐっと呑む。

克哉は、私が御堂さんにされた事など、どうでも良いらしい。

それでも、それは薄々気付いていた。


会社で私が泣きじゃくり克哉に縋った時、事態が急激に動いたのを喜んでいた彼。

私が御堂さんから渡されたメモを見ても尚、克哉は事態が悪転する事を望んだ。

そして今、彼の望む通りに事が動き始め、心底楽しんでいるのだろう。


資料室で抱き締めてくれた時。

私に囁かれた声の色から、それは、予想出来ていた。

「っ・・・そんな、訳・・・」
「そうか。・・・だが、あの御堂がねぇ・・・」

克哉がさも意外だと言う風に口にするが、そんな事思ってもいないと言うのは、察するに難しくない。
でも、私は本気で驚いている。今でも、あんな事をされた後でも、信じられない。
あの御堂さんが。
仕事一筋で、実力主義の、あの御堂さんが。
私の様な出来損ないの人間に、あんな事を要求するなんて。

「まぁ・・・大方、お前に何か行動を起こすと言うのは、予想していたがな」
「え・・・」

克哉の言葉に、涙で滲む視界を向ける。
克哉は、こっちを見ていなかった。

「アイツは俺に、強い嫌悪を抱いているからな。俺に対する報復のつもりなんだろう」
「・・・報復?」
「気付いていなかったか?俺とお前がいる時、御堂がお前に視線を向けていた事を」
「・・・・?」

知らない。
克哉が睨まれていたりしたのは、知ってるけど。
私自身が見られている事なんて、全然。
もし見られていても、それは克哉がいるからなんだと、思っていた。

「お前が何らかのミスをしたら、俺がすかさずフォローする。
 俺が御堂を挑発し始めれば、お前は静かに俺を制止しに掛かる。
 御堂の眼にはさぞ・・・仲睦まじい、バランスの取れた良き兄妹だと映った事だろうな」
「!」

克哉の愉快そうな声に、まさか。と、マジマジと彼を見詰める。


わざと、だったのだろうか。


会議の時、私が御堂さんから指名され答えに詰まった時、克哉が助けてくれた。
その後すぐに、いつもの様に御堂さんを挑発し始め、険悪な空気になってしまったけど。

・・・そうだ、その後、私は克哉を止めたのだ。
彼の袖を引っ張って、腕を掴んで、必死に止めたのだ。


・・・その時、御堂さんは、眼を逸らす事も無く、私達を見ていた。


「・・・・・・・」
「まぁ、身体を要求して来るとは思わなかったが・・・お前に求められる物なんて、それくらいしかないしな」


克哉が嘲笑う。
私の思考回路は、すでに十分に鈍っており、どう言った反応を返せば良いかすらわからなかった。

ただただ、いまだ私の髪を撫ぜている手の感覚に、身を委ねるだけ。

そんな私の反応が気に入ったのか、克哉は唇を私の額に落とす。


「なぁ、お前。御堂に好き勝手されたのは、悔しいだろう?」
「っ・・・あ、当たり前っ」
「なら・・・」


克哉の唇が、まだ濡れる私の耳に、そっと寄せられる。




「このままいっそ、御堂を耽溺させてしまえば良い」




何を。

克哉は、何を言うのか。


信じられない思いで、そして縋る様な色を篭めて、克哉の眼を見る。


けれど、レンズの奥の瞳は、冷たく暗い愉悦しか滲ませていなかった。


「そん・・・なの・・・出来る訳・・・」
「あの御堂が、だ。いくら俺に対する報復の手段をお前に見出したとしても・・・
 パートナーである部署の人間に、肉体関係を要求するような軽薄な人間じゃない奴がだ」

克哉の手が私の頭から離れ、耳を、頬を滑り、唇についと押し当てられる。

御堂さんには触れられるだけで嫌悪を覚えたのに、克哉のその動作には、胸の内に熱すら灯る。

「お前にそれを求めた。・・・少なくとも、奴はお前にそう言った欲を感じているからだ」
「そんな、そんな・・・そんなの・・・そんな事・・・」

意味を持たない否定が口から零れる。
戦慄く唇がそれを克哉に伝えるも、克哉の指がそれを止める。


「それなら簡単じゃないか。奴に媚びて、縋って、全てを絡めとってしまえば良い」


克哉の指が唇から離れる。
それと入れ替わる様に、克哉の唇が、そこに押し当てられた。

衣擦れの音が、やけに大きく響く。

何度か軽く重ね合わされ、私が克哉に全ての体重を預けると、克哉がまた、悪魔の様に囁く。


「お前にはそれが・・・出来る筈だろう?」


克哉の言葉に、力なく首を振り、否定する。



嫌だ。

彼相手に、御堂さん相手に、そんな事をするなんて。

いくら8課の為とは言え・・・彼に媚び縋るなんて。

それなら一方的な支配に置かれ、苦痛を与えられるをのやり過ごす方がマシだ。



「・・・・いや・・・・やだ・・・・」
「俺はお前に、御堂を誑し込めるだけの事は教えてある筈だが?」
「いや・・・いや・・・それは、いや・・・」
「全く・・・こう言った時に覚えた芸を見せないで、どうする?」


長い間。

10年以上に渡って続いている、克哉との禁忌の関係。

長く続くその中で、私は、普通なら知らずに済む様な事を、たくさん克哉に教わった。

今ではもう、克哉にそう言った行為を匂わせられるだけで、状況などお構い無しに身体は反応する。


今日御堂さんに口での奉仕を命じられた時だって、そうだ。

私の心などお構い無しに、その行為に慣れ、教え込まれた身体は、否応に覚えている動きを再現する。


でもそれは、克哉にしたい事。

克哉にだから、何だって出来た。
何でも教えて貰って、それを克哉にした。

克哉だから、私は・・・。


「いや・・・御堂さんに、そんな事・・・」
「お前の芸がどれ程磨かれたかを見るのに、良い機会じゃないか」
「そんな・・・」


嫌だと、必死に克哉に懇願するのに、克哉はただ笑うだけで。


御堂さんに接待を要求された時と、似た様で違う絶望感が、私の胸に染みの様に広がった。




克哉の両手が私の震える肩を抱き、そっと倒す。

床に座ったままベッドに上体を預ける形になった私の上に、克哉が圧し掛かった。



「か、つや・・・」
「折角なんだ・・・御堂の奴を、溺れさせてしまえ。・・・お前の、身体に」



そう、間近で笑った克哉の顔は、涙の所為で、良く見えなかった。





















NEXT.


もう割りとお気づきかと思いますが、克哉さんが最悪な性格してます。
御堂さんが悪。と見せかけて根源は克哉さん。
今の所助けてあげる気は0%です。基本傍観ポジション。