月曜の朝。
いつもより早く眼が覚めた、朝。
身体が、鉛の様に重い。
Rental-8-
「・・・・・はぁ」
眠る克哉の腕を抜け出し、いつもの通り洗面所で顔を洗う。
冷たい水に、いつもは一日の始まりを感じ、気合を入れ直していると言うのに。
水滴を滴らせながら見た自分の顔は、鏡の中でより一層色を無くしていた。
「・・・酷い顔・・・治らないかな・・・」
先週よりも、更にやつれた様に見える。
コレでは営業先に、顔なんて見せられない。
営業失格かな。と、無意識に自嘲めいた笑みを浮かべた。
瞬間、御堂さんの嘲る様な笑いが、鏡に見えた気がした。
「っ・・・!!」
思わず、悲鳴を飲み込む。
近づけていた顔を鏡から離し、じっと見る。
・・・映っているのは、憔悴した顔に驚愕をありありと乗せている、自分。
「・・・・・・・」
幻覚の様な物まで見る様になった自分に、知らず涙を滲ませる。
それと同時に、つい先日の、あの悪夢の様な時間が脳裏に過ぎった。
(・・・いつまで、いつまであんな・・・)
去り際、御堂さんは、『また来週』と言っていた。
・・・今週また、御堂さんと・・・会わなくてはならない。
あのホテルに来いと、言われた以上は。
(御堂さんは・・・一体いつまで・・・こんな事を・・・)
御堂さんが、飽きるまで?
プロトファイバーの販促期間が、終わるまで?
後者に至っては、2ヶ月もある。
売上目標を達成するには心許ないその時間も、悪夢の続く時間となれば・・・
けれど、2ヶ月で終わってくれるのならば、まだ良い。
・・・もし、もしも、その後も続く様だったら・・・?
浮かびかかったおぞましい想像を、頭を振る事で打ち消す。
嫌だ。そんなの嫌。
そんな事になるくらいなら、いっそ、会社を辞めてしまいたい。
でもそれは、プロトファイバーの販促期間が過ぎても・・・と言う場合だけれど。
今は、そんな事出来ない。
何度か、あの時御堂さんの言葉に頷いた事を後悔した事も、あったけど。
それでも・・・8課を救うには、ああするしかない。御堂さんに従うしか、ない。
私は今、耐える事しか・・・出来ないのだ。
兎に角、プロトファイバーの件だって、先に思い出した通り、残り2ヶ月。
やらなくてはならない。何がなんでも。
そうでなければ、私が味わわされたあの苦痛も、羞恥も、全て泡になる。
(・・・やるしか、ない、のに)
それでも顔にはやはり生気は無く。
この1週間を乗り切ろうと言う気力すら、微塵も沸かなかった。
月曜恒例のミーティング。
御堂さんの顔は、見る勇気が無かった。
つい、隣にいる克哉に、寄り気味に座る。
その様子を、克哉は至極愉しそうに一瞥し、笑う。
御堂さんは、少々険のある視線でコチラを見て、眉を顰める。
私はただ、克哉の隣で、俯きながら書類を眺めるしか出来なかった。
今回も少々克哉と御堂さんの口論が挟まれたが、凡そ問題も無く、会議は終了した。
「それではこれで、今日のミーティングを終わる」
御堂さんの言葉に、ほっと肩の力が抜ける。
少し身体の触れている克哉にもそれが伝わったのか、面白そうに眼を眇められた。
「調子は良いようだが、まだ目標には遠い。より一層の奮起を期待する。
・・・・まぁ、君達もわかっているとは、思うが」
毒を含んだ物言いに、本多がありったけの嫌悪を顔に浮かべ、私に耳打ちする。
「わかってはいるとは思う。・・・だとさ」
「や、やるしかないよ・・・」
既に背を向けて書類を整理している御堂さんにハラハラしながら、苦笑いで本多に返す。
本当に彼は、わかりやすい人だ。
克哉は克哉で呆れている。本多を相手にする気も無いのだろう。
「それでは、帰りましょうか」
片桐さんの声に、私達は一斉に席を立つ。
本多はこの後すぐにアポイントが入っているのか、会社には戻らないらしい。
私と克哉は、一旦片桐さんと一緒に8課に戻るつもりだ。
皆、それぞれの予定を頭の中で整理しながら足を一歩動かした、その時。
「佐伯君」
御堂さんの声が、和やかだった私達の空気を、一気に引き裂いた。
「・・・え?」
「はい?」
私と克哉が、同時に声を返す。
私は、湧き上がる不安と煩い鼓動を隠しながら。
克哉は、口元に相変わらず挑発的な笑みを浮かべながら。
私達が2人共『佐伯』だと言う事を思い出したのだろう。
御堂さんは少し苦い顔をした後、下の名で言い直した。
「・・・克穂君、君の方だ」
「は・・・はい」
やっぱり、御堂さんが呼んだのは、私。
出来れば克哉の方であって欲しいと願ったが、その希望は無惨に打ち砕かれた。
御堂さんが、眼で私を呼ぶ。
「す、すぐ、行きます。・・・か、克哉・・・あの・・・」
御堂さんに答えながら、克哉に縋る視線を送る。
何とかして。助けて。私を見捨てないで。
そう、縋る視線を。
でも、克哉は。
「そうですか、それでは俺は失礼しますよ」
「ああ」
「っ・・・克哉・・・!」
偽善的な笑みで口元を歪め、御堂さんに告げる。
私が小さな声で呼ぶと、その笑みは酷薄な物に変わった。
そうして、私に耳打ちをする。
「良いチャンスじゃないか・・・さっさと、堕としてしまえ」
「っ・・・」
眼を見開く。
その私の様子に本多が駆け寄りそうになっていたけど、克哉に止められていた。
克哉はそのまま、本多と片桐さんを連れて、無情にも会議室から出て行ってしまった。
・・・残された私は、同じく残っている御堂さんの元に、脅えながら近寄る。
用件が大体見当のつく今であるから、尚更、怖い。
「・・・なん、でしょう・・・」
私が緊張に満ちた面持ちで問うと、御堂さんは形の良い唇を吊り上げる。
「次の予定だ」
「・・・っ」
会社で。会議室で。その話を出される。
予想はしていたけれど、それでも恐怖は、加速する。
「なんだ、その顔は」
俯いた私を哂う様に、御堂さんが言う。
酷い顔を、更に情けなく歪めている私を見て、心底愉快そうだった。
それに耐えられず、思わず口が縋る様な問い掛けを御堂さんに投げる。
「・・・いつまで、こんな事を・・・」
「決まっているだろう?私が、満足するまでだ」
「ど、どうしたら・・・どうしたら、満足してくれるんですか・・・」
「さぁ?」
必死の言葉は、御堂さんの鼻で笑う様なそれで一蹴される。
悔しさに唇を噛むと、御堂さんがついと一歩、私に近寄った。
「っ」
一歩足を引くのが遅れ、御堂さんの指が私の首筋に届く。
そこから、舐める様にゆっくり撫で上げられ、顎をゆるりと掴まれる。
思わず、身体が震えた。
「・・・・っ」
「まぁ・・・君が私を満足させようと、努力しているのはわかるが・・・」
「う・・・」
御堂さんの嘲る声に、あの光景がフラッシュバックする。
ホテルの部屋で受けた屈辱。
無理矢理曝け出さされた痴態。
悔しさ。怒り。悲しさ。情けなさ。全てを含んだ、絶望感。
肩を震わせて俯く私から指を外し、御堂さんが言う。
「週末、またあのホテルだ。忘れるなよ」
「・・・・・・・・」
思わず黙り込むと、御堂さんの切れ長の眼がすっと細まる。
そして少々気分を害した様に笑みを消し、追い討ちを掛ける様に再度問うた。
「・・・返事は?」
「・・・・・わかり・・・まし、た」
私の答えに、御堂さんは深い笑みを浮かべる。
耳元に口を寄せ、わざと低い声で囁かれた。
「それでいい」
「っ・・・失礼します!」
鳥肌が全身に立ち、思わず御堂さんから、走って逃げ出す。
御堂さんの愉快そうな低い笑いが背を追うのを、会議室のドアを飛び出す事で逃れた。
「遅い」
「!?」
ドアを閉め、廊下に飛び出た瞬間。
すぐ隣から、克哉の呆れた声が耳に飛び込んで来た。
「かっ・・・克っ・・・」
「でかい声を出すな、煩い」
「う・・・ごめん・・・」
どうやら、ずっとドアの隣で待っていてくれたらしい。
見た所・・・いるのは、克哉だけ。
あの話を片桐さんや本多に聞かれていないと言う事に、まず安堵した。
それから克哉の姿をしっかり眼に入れ、泣きたいくらいの安らぎを、一時得る。
「克哉・・・あ、待って」
私に構わずさっさと歩き始めた克哉の後を、慌てて追う。
そして、隣にピッタリくっつく様に並ぶと、克哉はふぅと溜め息を吐いて私を一瞥した。
「まったく・・・何て面をしている」
「だ・・・だって・・・」
眉を八の字に下げて克哉を見上げると、これ見よがしに溜め息を吐かれる。
それに言葉を詰まらせるも、此処に克哉がいてくれるのは、何よりも嬉しい。
思わず、きゅ。っと、克哉の袖を指先で掴んだ。
「・・・おい」
「MGN出るまで・・・」
「・・・はぁ」
もう一度、溜め息を吐かれる。
それから強引に、袖を掴んでいた私の指を払った。
「あ・・・」
「・・・・まったく」
そしてすぐ、行き場を失った私の手を、克哉の大きな手が握り締めてくれる。
「か、克哉・・・」
「うるさい」
「・・・ありがとう」
「・・・うるさい」
嬉しくて、泣きそうになりながら言う私に、克哉は優しい声で、そう言った。
NEXT.
このままだと克穂さんが自害しかねないので克哉さんに慰めて貰いました。
克哉さんが優しかったのは、あくまで自分に従順な克穂さんに満足したからかと。
御堂さんがちょっと克穂さんに本気になりつつあるあたりが怖い。
克哉さんと寄り添ってると眼だけで殺せそうな視線を投げてきます。無自覚な嫉妬!