いつもは1人のこの部屋に、暖かい気配。

コトコトと煮込まれる鍋の音と、規則正しい包丁の音。

食欲をそそる香りに、ついつい視線をキッチンへやる。


そこには、淡い色の髪を揺らしながら手際良く作業する女性。


細く柔らかそうな身体にピンクのエプロンを纏った姿が、良く似合う。

鍋に入ったスープを小さな皿に掬い、味見をした所で、私の視線に気付いたらしい。

絹の様な髪を揺らし、抜けるような空色の丸い眼を少し細めて振り返る。

その白い頬を薔薇の様な色に染め上げ、それから優しい微笑を向けてくれた。


「もうちょっとで出来ますから・・・待ってて下さいね、御堂さん」


・・・ああ、こんな幸せな夜が、あって良いものか。









「お口に合わなかったら、ごめんなさい」


彩り豊かに並べられた食卓に、彼女が申し訳無さそうに俯く。

まだ箸もつけていないのに、全く彼女は、相変わらず自分に自信の持てない女性だ。

その綺麗な眼を伏せながら頭を下げる彼女に、慌てて顔を上げる様に言う。

そして、ダメだったら口を合わせると笑って言ってやれば、彼女もようやくほっと微笑んだ。

「君は、料理が上手なんだな」
「いえ、そんな事・・・」

彼女が作ってくれた料理を堪能しつつ、その出来栄えに舌鼓を打つ。

和食はほとんど口にしないが、こんなに美味ならば、毎日でも構わない。

彼女が作ってくれる物ならば、例えそれがキムチ鍋でも完食出来る自信はあるが。


しかし彼女の口から”あの男”の名前が出たなら、たちまち砂を噛む様な思いに変わる。


「克哉は、いっつも何も言ってくれませんから・・・」


途端に歪んだ私の表情を見て、彼女がはたと口に手を当てた。
自分でもしまった。と思ったのだろう、伺う様に上目遣いで私を見つめてくる。

そんな愛らしい表情をされてしまっては、私も彼女に年甲斐もなく拗ねた顔を見せる訳にいかない。

「・・・気にするな」
「す、すみません・・・」
「いいや、君が悪い訳じゃない。だから、そんな顔をするな。
 ・・・食事は、楽しい方が良いだろう?」
「は、はい」

笑って、赤ワインを揺らしてやれば、彼女も微笑む。


その彼女の穏やかな微笑を見て、このまま佐伯の奴が帰って来なければ良いと、心底思った。




彼女が何故私の部屋にいるか。

それは、昨夜に遡る。

週末、一緒に食事でもどうだと彼女に連絡を入れた時だ。

いつも佐伯に確認を取ってから返事をくれる彼女が、珍しく二つ返事でOKしてくれた。

その意外な反応に、喜びよりもまず驚きが勝り、どうしたのかと問い掛けてみれば・・・


『克哉、1週間出張で・・・今、いないんです』


顔は見えずとも、控え目な苦笑いを浮かべていたであろう彼女の言葉。

それに、柄にも無く焦りを覚えた。


1週間!?

佐伯がいないのは良いが、1週間も、彼女は1人で過ごすのか!?

・・・いや、確かに彼女はもう25歳の成人であるから、1人でも困らないのだろうが・・・


それでも、何だか、心許ない。

彼女を1人きりにさせておくのは、どうにも耐え難かった。


そこで、わざとらしく咳払いなどをしてから、徐に、彼女を誘ってみたのだ。



『・・・君さえ良ければ、佐伯が帰って来るまで、家に来ないか』




そんな経緯を経て、今彼女がここにいる。

せめて夕食だけでも作らせてくれと頼む彼女に、手料理の喜びを噛み締めたのは秘密だ。

シンクで後片付けをしている彼女に幸福を覚えつつ、その背に先にシャワーを浴びて来る様に促す。

「君は先にシャワーを浴びてくれ。私はメールの処理をしておきたい」
「は、はい、じゃあ・・・その、お先に・・・」

エプロンを外しながら微笑む彼女に、心がこそばゆくなる。

思わず緩む頬を隠しもせずに彼女へ返すと、彼女もそのまま着替えを持って浴室へ向かった。


・・・もし彼女と共に暮らす事になったら、この光景が日常になるのか。

・・・そして佐伯は、こんな彼女の姿を、毎日見ているのか。


彼女と同居している佐伯に、憎々しさを隠し切れないまま、パソコンを立ち上げる。


そこで彼女の携帯が鳴り響いたが、どうやらもう彼女には聞こえていないらしい。


まさか私が出る訳にもいかず、彼女が戻ったら着信を伝えておこうと思考に留め、メール画面へ眼をやった。










誰かが使った後のシャワーと言うのは、何とも不思議な感じがする。

それが彼女ならば、尚更だ。

彼女の甘い香りがシャワーの熱気と混ざり合い、余計な気分を駆り立てられる。

普段は全てを洗い流してくれるそれが、何だかやたらと心を煽った。


・・・いけない。

こんな事で、今夜、持つのか。

勿論、彼女に無体を働くつもりなど毛頭ないが・・・。


彼女には、佐伯が帰って来るまで。と言っておいた。

彼女もその分の荷物を持って来ている。


・・・佐伯が帰って来るまで、後4日。


もう2度と帰って来なくて良いと思うと同時に、少し、自分の忍耐力に不安を覚えた。




こんな事ではならないと浴室から上がると、ピンクの寝巻きを纏った彼女が、携帯を見つめていた。

恐らく、先程の着信へ返した所だったのだろう。

濡れた髪が、赤らんだ肌が、見慣れない夜着から覗く素足が、やたらとコチラを刺激して来る。

眼の保養を通り越して眼の毒だ。とばかりに視線を外せば、彼女は首を傾げて見つめてきた。

「あの、御堂さん?」
「い、いや・・・着信は、誰からだったんだ?」
「あ、えっと、克哉からです」

佐伯の名を、嬉しそうに口にする彼女に、思わず眉が寄るのがわかった。

彼女があの男の名を口にする時は、心底幸せそうな顔をする。

・・・あの男にしか向けない笑顔。

心底羨む自分が、少し不気味だ。


「何て来たんだ」
「いえ、いつもこのくらいに、メールをくれるんです。
 なので、今日は御堂さんの所に泊まるって、返事したんですよ」
「そう、か」


彼女が私の部屋にいると知って、あの男はどう思うだろうか。

・・・きっとあの男の事だ、余裕綽々の気色で、彼女のメールを読んでいるのだろう。

何があっても彼女は自分から離れない。

彼女は自分の物だと言う、絶対の自信を持つ、あの男。


ああ、腹が立つ。

いつか、彼女の心を、コチラに向かせてやろうと1人決心を再確認しながら、時計を見る。


まだ、21時を回った所だった。


いつもこの時間、退社した頃か、まだ雑務処理に追われている時間だ。

今日は彼女の迎えも予定していたし、プロジェクト完了直後であった為、まだ空が茜の時間に退社した。

その分、彼女といる時間を延ばせた訳だが、この後、これと言ってする事が無い。


ワインを飲みながら、何か話そうか。

・・・いやしかし、先程から、自分の中で良からぬ感情が渦巻いている中。

彼女の傍で、アルコールをこれ以上摂取してしまうのは、危険な気がした。

勢いに任せて、何を口走り、彼女に何をしてしまうかわからない。

それ程まで切羽詰っているのかと自嘲を浮かべながら、さてどうした物かと思案する。



すると不意に、彼女の小さな唇から、眠たそうな欠伸が1つ零れた。



「・・・眠いのか?」
「えっ、あ、ご、ごめんなさい」
「いいや、謝る必要は無い。・・・まだ、21時過ぎだぞ」
「そ、そう、なんですけど・・・ちょっと、この3日間・・・眠れてなくて」

小さな声で言う彼女に、首を傾げて理由を問う。

私の視線を受けた彼女は、数瞬戸惑った後、消え入りそうな声で、恥ずかしそうに答えてくれた。



「・・・克哉が、隣にいない、から・・・眠れなくて・・・」



・・・何て可愛い理由だろうか。

まぁ、25の大人が言う台詞ではないだろうが、彼女ならば例外だ。

佐伯の名前が、私の名であったのなら、コレ以上無い程に幸福だが、生憎あの男である。

その点に不服を覚えもするが、それも、彼女の言葉と仕草の前には、些細な問題だった。


「そう、か・・・」
「ご、ごめんなさい!見っとも無いですよね、良い大人が・・・」
「いいや、気にするな・・・」
「ごめんなさい・・・でも、どうしても、寂しくて・・・」


寂しいと零す彼女に、もっと早く一緒にいてやれば良かったと、後悔の念が沸く。

この3日間、彼女はずっと1人で過ごしていたのだ。

1人で待つ部屋は、酷く寒かっただろう。


「・・・誰かが隣にいないと、不安か?」
「そ、う・・・ですね・・・、克哉が、いないと・・・眠れなくて・・・」


俯いてしまった彼女の頭をそっと撫でてやる。

しっとりとした洗いたての髪からは、同じシャンプーを使ったとは思えない程、良い香りがした。

何度か頭の形に沿う様に撫でた後、キョトンとする彼女に、ダメもとの一言を投げ掛けてみた。



「・・・私では、役不足か?」









秒針の音がうるさい。

微かに外から聞こえる音がうるさい。

自分の心臓の音が、うるさい。


まさか彼女が、私に言葉を受け入れるとは、夢にも思わず。

あんな発言をした自分に、珍しく後悔を覚えた。


自分の腕を枕にして眠る、愛しい彼女。

いつも佐伯が腕枕をしてくれると言うので、私がその代役を買って出たのだが・・・


自分の胸元で聞こえる、彼女の穏やかな寝息。

甘い甘い、男を誘う様な香り。

柔らかい体、温かい体温。

そしてその、安らかな愛らしい寝顔。


・・・克穂君、何故だ。

何故君は、他人の男の腕で眠れるんだ。


それだけ信頼を置かれているのだろうが・・・この状況は、些か辛い。

耐えられる筈が無い。

浴室で、彼女の残り香を感じ取っただけで、昂ぶりそうになったのだ。

無防備な様子の彼女が自分の腕で眠っていて、どうして我慢が出来ようか。


だが、今手を出す訳にはいかない。

彼女との間に築き上げてきた全てが、一瞬にして崩れ落ちてしまう。

・・・しかし、眠る彼女への誘惑は、信じられないくらい抗い難く。


ああ、大体、どうして君は私の隣で眠る事を受け入れたんだ。

私と同じベッドに入る事を、どう言う意味で受け取ったんだ。

何をしても良いと言う、遠回しな合図なのか?
それとも、そもそも私を男として認識していないと言う事なのか?

・・・恐らく、後者だろう。
非常に不本意だが・・・彼女の事だ。

そのくらいは、私でも、予想がつく。


思わず溜め息が漏れ、何とか気を紛らわそうと、そっと顔だけ動かす。


自身の心臓の音の煩さに、彼女が起きてしまわないかと危惧しながら、時計へと眼をやった。


暗闇で見え辛いが、辛うじて、0時を過ぎた所だと視認出来る。





ああ、夜は長い。

しかし、こんな幸せな苦痛なら、味わってみるのも良い。

隣に彼女が眠る夜。

この上ない幸福感を感じながら、彼女の寝顔を見つめ始めた、その時。





ピンポーン。

ピンポーン。





無音に近かった部屋に、突如インターホンが鳴り響く。

思わず、何もしていないにも関わらず、ギクリと身体が揺れた。

幸い彼女は起きなかった様だが、それでも、こんな時間に、一体何事だ。


そっと、彼女の頭から腕を引き抜き、ゆっくりとベッドを抜け出す。


その際にも、もう一度急かすようにベルが鳴り、思い切り眉間に皺を寄せながら寝室を出た。


こんな非常識な時間帯の来訪者。

思いつくのは、1つしかなかった。


恐らく、またいつもの店で飲んでいた、大学時代の友人達だろう。

彼等は時折、酔うと私の部屋へ来る事があった。

その都度相手をしてやり、寝場所を提供してやっていたが・・・生憎今日は、お引取り願おう。

何せ、目下片想い中の彼女が、私のベッドで眠っているのだ。



それに免じて、今回は見逃して、優しく帰りを促してやろう。

今夜は、幸せな夜なのだから。






そう。今夜は、幸せな夜。



そう信じて、疑わなかった。






ドアのスコープの向こうに、シルバーフレームの眼鏡を掛けた、嫌味な男の姿を見るまでは。



























END.


そして悪夢へ。(御堂さん・・・!)
出張先から克穂さんを引き取りに来ました。
名古屋辺りからなら10時まで最終があるので来れるかと。
そのままビックリした克穂さんを強制連行。さ、最初からそうしとけ!
御堂さんも折角良い思いしてたのに、心底肩透かしだっただろう。
いや、あと4日もこんな生活してたら、克穂さんの貞操が危なかったけど。

それにしても克穂さん、いくら寂しいからって、よその男の腕で寝ちゃいけない。
天然子悪魔もほどほどに!