ふと気付いたら、知らない場所にいた。


血色の空。

轟く雷鳴。

嫌な臭い。

痛い程の殺気。


そこが何処だか、幼い私にはわからなかった。


ただただ、見知らぬその場所が恐ろしくて。

張り詰める殺気と妖気が恐ろしくて。



私は1人、異界で泣いていた。










「ひっ・・・・ひくっ・・・・」


その場に蹲って、只管嗚咽を上げる。

助けを呼ぶ事など出来やしない。

震える足を持ち上げ、歩む勇気などある訳ない。

恐怖に心を支配された私は、何も考えられず、ただ泣きじゃくるだけ。



「ひくっ・・・ぅっ・・・・」



父の名を呼べば来てくれるか。

側近達の名を呼べば来てくれるか。

防衛隊の名を呼べば来てくれるか。


そう、一瞬思ったりもしたが。それは無理だと、幼い私は悟っていた。


父が自分を助けに来る筈が無い。

側近達が、こんな不気味な場所に来る筈が無い。

防衛隊達にだって、きっと私の声は聞こえない。


自分で出したその結論に、また悲しくなった。

悲しくなって、余計に不安が掻き立てられた。

情けなく鼻を啜りながら、更に泣く。






泣いて泣いて、足元に涙の泉が出来そうなくらい泣き通した時。

しゃがみ込んでいる私の上に、大きな影が被さった。






「・・・・・・・?」
「何を泣いているんだ?お嬢ちゃん」



驚いて、涙でグシャグシャの顔を上げると、そこには眩しい閃光。

・・・いいや、閃光にも似た激しい輝きを持つ、白い髪の男。



綺麗だった。



先程までの恐怖も、不安も、泣いていた事すら忘れる程に見蕩れた。

稲妻の様に鋭い。けれど新雪の様な柔らかな光を宿す男の髪。

長い長いそれは、私を誘うように揺れていた。


「・・・・・・あ」
「・・・・アンタ、霊界の奴だな・・・・」
「・・・・え、あ・・・・」


男が私を見て、そう言った。

苦々しい声だった。

少しだけ嫌そうな顔をした。

私はそれを見て、また泣きそうになる。

何故だかわからないが、酷く悲しかった。


「ふぇ・・・・・・」
「あぁ・・・いいや、何でもない。泣くな泣くな」


再び泣きべそをかき始めた私を、男は少々慌てた様子で慰め始めた。

今思い出せば、あの男が。と、滑稽な様子に笑いを零してしまう程に。


大きな手が、私の小さな頭を乱暴に撫ぜる。

その無骨な掌に、私の頭はスッポリと収まってしまう。

長い指先には鋭い爪。

私の喉笛なぞ簡単に引き裂いてしまいそうな、鋭い爪。


それに、幾許かの恐怖心を抱く。

私の喉を切り裂くのではないかと言う、単純な。けれど明確な恐怖。

しかし。

私の頭を撫でる、その手の暖かさへの安堵が、それより勝った。




「・・・・・・ここは、何処?」




涙に濡れた声で、小さく問う。

男は私の頭をまだ撫でながら、簡潔に答えを寄越した。


「・・・魔界だ」
「・・・・・ま、かい?」
「ああ。・・・アンタみたいな可愛いお嬢ちゃんが来る所じゃないさ」


魔界。

名だけなら聞いた事があった。

そして何度も何度も耳に刻むように、教えられて来た。


私達の住む霊界とは相反する世界。

惨忍な魔物達が巣食う世界。

絶対に近寄っては、ならない世界。





それを認めた瞬間、私の体は大きく震えた。





怖い。

男の出現により薄らいでいた恐怖が、一気に噴出した。

・・・それでも取り乱す事をしなかったのは、男の手があったからだと、今は思う。

男の柔く撫ぜるその手が、静かな安らぎを幼き私に与えていた。


「どうしてここに迷い込んだ。霊界からは来る事が出来ない筈だ」
「・・・人間界を、散歩してたら・・・ここにいたの」
「・・・・そうか。空間の亀裂から迷い込んだんだな・・・・」


男はずっと私の頭を撫ぜている。

心地好いそれに、一瞬恐怖に持っていかれた心が落ち着きを取り戻す。

その暖かさに、ついついうとりと眼を細めた。


「・・・よし。人間界へのゲートへ連れて行ってやる」
「・・・・本当?」
「ああ。アンタもここに長くいたくはないだろう」
「・・・うん」


私が素直に頷くと、男も軽く笑った。

にやりと。鋭い牙を見せて笑った。

今ならば、野生の狼の様だと例える事が出来る。

けれど幼かった私は、それが随分恐ろしい物に見えて仕方がなかった。


軽く震えた私を、男が不思議そうに見遣る。

私は、何でも無い。と、一言だけ返し、口を噤んだ。




「・・・行くぞ」
「?!」




男の声と同時に、私の体が宙に浮いた。

声を上げる間も無い。

身動ぎする間も無い。

宙へと浮いた次の瞬間には、私の肌は痛い程鋭い風を感じていたのだ。


「わ。わ。わ・・・っ」
「掴まってろよ、お嬢ちゃん」


辛うじて、風の中聞こえた男の声。

それに何も考えられないまま、体だけはきっちり反応を返した。

男の首に、ぎゅっと幼い両腕を回す。

軽々と片腕に乗せられた私には、他に出来る事が無かった。


男の稲妻色の髪が、私の顔を撫ぜる。


激しい妖気が、私の中に流れ込む。


頭を撫でられた時には感じなかった、その妖気。






男が魔物なのだと、この時初めて、しっかりと認識した。














「じゃあな。もう迷い込むなよ」



人間界への門へと、男はあっと言う間に連れて来てくれた。

私はまだ覚束無い足で、地へと立つ。

改めて見上げると、男はとても高い背を持っていた。


「・・・あ、りがとう」
「いいや、礼なんかいらねぇよ」
「・・・うん。・・・えっと・・・」


名を呼ぼうとして、止まる。


私は男の名を知らない。

同じく男も、私の名を知らない。


それに男も気付いたのか、また軽く笑って、名を私に教えてくれた。





「・・・雷禅。俺の名だ」





らいぜん。

その髪色に良く似合った名だと思った。

きっと、一生忘れないだろうとも、思った。


「お嬢ちゃんは」
「・・・・・コエンマ」
「・・・・・・・・・・・そうか」
「?」


男は、また苦い顔をした。

私の名はおかしいだろうか。

嫌な名だったのだろうか。

本当の名でなくてはならなかっただろうか。


そう不安そうな表情で思案すると、男は慌てて表情を取り繕う。


そして、また、私の頭を大きな手で撫ぜた。


「?」
「・・・・・・いいや、何でもない。コエンマか」
「うん・・・」


男の体温に眼を細めつつ、返す。

男が何を思案しているか、幼い私には良くわからなかった。



「・・・さぁ、もう行け」
「・・・・うん。・・・・ありがとう、らいぜん」



小さい手を振ると、男も軽く手を上げて返してくれた。

私はそれが、奇妙な程に嬉しかった。









1人ゲートを潜り、顔を上げる。



いつもと変わらない人間界が、そこにはあった。









「コエンマ様!」


誰かが私の名を呼ぶ。

見てみれば、防衛隊の1人だった。

名前は知らない。


「コエンマ様!よくぞご無事で・・・!」
「・・・・?」
「魔界に迷い込まれたのですね。お体から邪悪な気が・・・」
「・・・邪悪・・・」


顔に、腕を近付ける。


男の妖気が香った。




けれどそれは、決して邪悪な類ではない。




もっと別の。

少なくとも私にとっては、好ましい妖気だった。




「さぁコエンマ様、霊界へ戻りましょう。皆、心配していますよ」
「・・・・うん」
「・・・・それと、もう2度と魔界へ近寄ってはなりませんよ。
 人間界へ行く時は、必ず私達の誰かを傍に置いて下さい」
「・・・・・・・・・・」



その言葉に頷く事を躊躇った。



魔界へ2度と近づかない。



あの男には、あの魔物には、もう2度と会えないのだ。



「さぁ、行きましょう」
「・・・・・うん」



隊員が、私の手を取る。

酷く冷たい感触がした。






「・・・・・らいぜん」






あの優しく、暖かい手には、もう2度と会えないのだ。






そう考えると、私の幼い胸は、深い悲しみで覆い尽くされたのだった。










それは、今からもう700年近く前の、奴との出会いの話。




























END.


幼いコエンマさんと人間を食べなくなって少しした頃の雷禅さん。
霊界の住人に、雷禅さんが良い思いは抱かなかったろうなぁ・・・
でも少しずつ、コエンマさんとの交流で、考えを変えたら良いとか思ってる。
そしてコエンマさんも、彼との触れ合いで生きている意味や霊界への疑問を感じて欲しい。

・・・と言う事は、だ。
コエンマさんと雷禅さんの付き合い、相当長いって事になる。
突然現れた新設定。
これを機に、作品増えないかな・・・。(自給だけど)


雷禅さん視点もその内。